陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(9) 前装施条砲 ナポレオン砲といわれた4斤野・山砲

▼フランスの技術供与と製鉄所

1866年に、ときのフランス皇帝だったナポレオン3世から幕府に12門の野砲が届きました。同時にフランス軍人もやってきます。ではいったい、開国の元となったアメリカ、海軍力の強大さを誇ったイギリスは何をしていたのでしょうか。

急いで兵力の増強をすることと近代化の第一歩は新型の兵器の輸入です。つづいて、それを国産化すること、そして第3段はそのマニュアルや維持管理の仕方などを学ぶことになります。その相手は当然、友好的であり、信頼できる国でなくてはなりません。

英国はいつもアジア諸国に武力で臨んできました。幕府高官たちがアヘン戦争(1840~42年)での英国の強引な、あくどいやり方に不信感をもっていたことは疑えません。また、友好的であったアメリカは南北戦争(1861~65年)という内乱の解決に精力を注いでいます。ロシアはどうか。ロシアはもともと北方から領土的野心をあからさまに見せてきました。

幕府としては英国でも仏国でもどちらでもいい、そんなところから始まったのでしょう。1865年の初めには造船所建設のための技師派遣を幕府老中はフランス公使・ロッシュに依頼します。この結果が、横須賀造船所と横浜製鉄所でした。

こうしてやってきたのがフランソワ・レオンス・ヴェルニーです。彼はフランスのエリート養成機関であるエコール・ポリテクニックを卒業し、ブレスト海軍工廠に勤務しました。その後、海軍技師として中国に渡り日本にやってきます。1837年生まれの青年でした。

フランスとの契約はすぐに行なわれ、ヴェルニーの書いた原案は造船所と書かれていましたが、幕府の翻訳では製鉄所、あるいは船廠(せんしょう)となっていると篠原宏氏は指摘しています。実際、幕府は造船という大きな構想より、蒸気機関の製造、そのための鉄板や鉄管の製作が現実的なところだろうと考えていたのでしょう。

実のところ、工廠それ自体が錬鉄、鋳造模型、旋盤鑪鑿(せんばんろさく)、製缶(せいかん)、製帆船具、船工木工といった各工場に分かれていました。鑢とは「ろ」、つまり「やすり」のことで、鑿とは「さく」、削るあるいは穴を開ける、うがつことを言いました。製缶の「缶」とはボイラーやタンクのことです。

フランス人は責任者のヴェルニーの他にも30名以上にもなりました。建築技師、主計官、医官、鋳造工、製図工、機械工、船工、製鋼工、錬鉄工、製缶工、模型工、鉄板工、石工、鑪鑿工などの現場技術者たちでした。また舎密工、ケミストリー、化学を扱う人までいました。

▼フランス軍事顧問団の来日

 1863年から英仏軍隊の横浜への駐屯は始まります。生麦事件の余波です。いまも横浜の元町中華街の駅の南にはフランス山、イギリス山という地名が残ります。英国軍兵舎は幕府が費用を出して、北陣営、訓練所、南陣営という約1万5000坪という広大なものでした。そこに入った英国兵は海兵隊員であり、軽歩兵は赤色軍服、砲兵は青色軍服を着ていてその数は1500名にもなりました。フランス兵は300名でしかなく、兵舎も3000坪ほどでした。

細かいことをいえば、英国兵による幕府兵への訓練提供もありましたが、大勢はフランスを頼ることになりました。19名の士官・下士官が来日し、幕府陸軍への訓練を始めます。士官たちは優秀で、シャノワンヌ参謀科大尉(のちに陸軍大将)、ジョルダン工兵大尉(明治陸軍にも奉職、のち少将)、ブスケ歩兵中尉(同前)、デシャルム騎兵中尉(同前、のち少将)、ブリューネ砲兵中尉(榎本軍に参加し、のち少将)などの人々でした。

1867年1月にはこの顧問団がやってきました。前年の11月19日にマルセイユを出港し、アレクサンドリアからスエズまでは列車の旅、27日にスエズを発ち12月27日に香港に到着します。1月8日に出港、13日に横浜港に入りました。およそ2カ月の旅になっています。

伝習場所は現在の横浜市南区の太田陣屋です。いまは京浜急行電車が走り横浜駅からは10分もかからない所になります。そこで歩兵、砲兵、騎兵の訓練が始まりました。ところが装備がありません。とくに大砲はまるでまともなものがなく、ロッシュ公使に頼んでようやく野砲と山砲が届きます。これらの他にナポレオン3世から12門の2個中隊分の野・山砲が届きました。

▼前装施条砲

 この砲の開発は1859年です。フランスの砲兵士官だったルイットが新しい野砲と山砲のシステムを発明しました。前装でありながら腔内にライフリングがあるために長弾(椎の実弾)を発射します。

重さ4キログラムの砲弾の周囲に12個の亜鉛製のスタッド(いぼ)がついています。砲身は青銅ですが内部は切削されて6状のライフルが刻まれていました。このライフルも砲口に近いところはゆるく、砲尾にゆくほどきつくスタッドに密着し、しかも1条だけは少しだけゆるくなっています。このように砲口から弾をいれる時には入れやすく、砲尾にいけば密着するという工夫がありました。

装薬(発射用の火薬)に点火すればガスが発生し、スタッドが膨脹して施条にきっちりと食い込みます。これで弾は回転を与えられて、2400メートルほど飛んだようです。

 わが国では、これをナポレオン砲といいましたが、フランス製の施条砲ならすべてをそう呼ぶようになりました。ナポレオン3世は、当時、最新鋭だった砲を12門もプレゼントしてくれたのです。この野・山砲を「四斤野砲・同山砲」といいました。この振り仮名を「よんきん」とする書物が多いのですが、「四」を「よん」と読むのは陸軍では砲兵操典の「数ノ呼称ニ関スル」規定からです。

 わたしは幕末には「四」は「し」であり、「しきんさんぽう」だと思っています。他にも江戸時代には「四百石」は「よんひゃっこく」ではなく「しひゃっこく」と言いますから、おそらく「四斤山砲」は「しきん・さんぽう」と呼んでいたと思います。

 また、この斤を160匁(1匁は3.75グラム)だから600グラムとし、4斤を2400グラムとする人もいますが、四斤山砲の口径は86.5ミリありますから、フランス式のメートル法による重量は4キログラム(1は1キログラム)と考えられます。

 発射する砲弾は榴弾、榴霰弾、霰弾の3種類です。榴弾には着発信管が弾頭に付けられて、堅い物にあたればすぐに起爆して内部の炸薬に点火し、弾が炸裂します。榴霰弾は時限信管が切られ、計算された時間がくれば弾底にある黒色火薬に点火されて内部の金属製の小玉を前下方に放射しました。霰弾は接近する歩兵などを目標にします。のちに「零距離射撃」といわれるように、発射されてすぐに弾穀は破裂して散弾をまき散らしました。

次回は新政府軍と幕府軍が対決する戊辰戦争の実態について考えてみましょう。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。