陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(36)砲兵火力より肉弾

2023年11月16日

▼欧州軍隊が日露戦争から学んだこと

 まず、堅固な要塞を攻めるには大口径の榴弾砲が有効だったことです。ドイツはさっそく大口径の攻城重砲を整備します。しかし、同時に日本陸軍が行なった白兵突撃を欧州諸国ではたいへん高く評価しました。戦勝の証しとは、ブーツで敵陣を踏む、撤退しない敵兵に対しては銃剣で立ち向かうことだとされました。

 よく日露戦後の日本陸軍が白兵重視となったことを愚かと評する人がいます。しかし、それは少し短絡的な考え方です。もともと日本陸軍は発足から火力重視でした。幕末の内戦、それに佐賀の乱や西南戦争では明らかに「勝敗を決めるのは勇気ではなくて優れた銃」だということが証明されました。佐賀の乱(1874年)でも「器械戦争」だと従軍者が言っています。

 そこで、白兵主義が愚かだったかどうか、そう言っていいか、そこには少し面倒な検討が要ります。実は、火兵主義をうたった明治の先人も西欧人がもともと白兵重視だったことを見落としていたのではないでしょうか。

アメリカ軍も含めて欧州の先進国陸軍では、伝統として白兵戦闘が重んじられていました。小銃の発射速度が遅かった時代、一斉射撃の後には続いて銃剣突撃が行なわれました。兵士たちは銃剣で格闘し、将校たちはサーベルやエペで戦うのがふつうでした。

 海軍でも事情は同じで木造帆船時代、砲戦のあとは接舷しての斬り込み攻撃が当たり前でした。斧や槍、短剣や銃剣、あるいは装填用の棒などを振り回し、甲板上では凄惨な白兵戦が行なわれました。

 南北戦争(1861~65年)でも、両軍ともに攻撃を偏重し、しきりに銃剣突撃などをしかけ合いました。ところが、それの効果がほとんどなかったことは公表された数字に現われました。北軍の負傷者25万人のうちに銃剣やサーベルによる受傷は1000名ほどということでした。それは0.4%にしか過ぎなかったのです。

 アリステア・クックという英国のジャーナリストがいます。彼が語るには、南北戦争の戦訓を英・米・仏各国の陸軍士官学校できちんと学べていれば良かったのにといいます。騎兵の抜刀突撃や歩兵の銃剣突撃がろくに効果がないことを、遅くとも第1次世界大戦(1914~18年)前には理解していただろうというのです。欧米の軍隊が白兵主義に別れを告げたのは世界大戦の後半でありました。

▼銃剣突撃は勝利の確認行動

 歩兵戦闘は火力をもって決戦とする・・・これが1898(明治31)年に改訂された歩兵操典の文言です。「突撃」とは陣地にこもった敵が銃火に圧倒されて逃げた後に進むことでした。銃剣突撃は敵陣にいる逃げ遅れた者や、戦意を失った敵負傷者を威嚇するためのものだったのです。

このため突撃前には着剣するという常識が守られない事態も起きました。歩兵第34聯隊(静岡県)の中隊長の体験談には、ロシア陣地に突入前に「着け剣」の号令をかけるのを忘れてしまったということが残っています。それを指摘する声も上がらず、中隊はそのままロシア軍の陣前に駆け上がってしまったのです。

 白兵戦の伝統などなく、白兵戦の訓練もほとんどしていなかった日本陸軍。ロシア兵の銃剣突撃に驚き、その敗走する日本兵の姿は各国の観戦武官の報告や、戦後の偕行社記事からもよく分かります。もっとも、それらは厳重な検閲を受けて、あるいは意図的な隠ぺいからか戦後の常識にはなりませんでした。

 むしろ、敵の機関銃の射撃の下で、榴霰弾が頭上で炸裂する中で、命令通りに雄叫びをあげて銃剣突撃をする忠勇無双の日本兵という姿が現在までも伝わっています。それはそれで事実の一部ですが、実態に深刻な衝撃を受けた陸軍軍人も多くおりました。

 愚かな日本陸軍の首脳は銃剣突撃を主とするようにしたという批判をする人が今もいます。では、当時の外国人はどう見ていたのでしょうか。

▼白兵重視の新しい操典

 戦後になって、ある将軍が「火力軽視のあの明治42年の操典こそが敗戦をもたらした」と語りました。よく知られているように、日露戦後に改訂されたのは1909年の歩兵操典でした。そこには銃剣突撃に高い評価をあげた白兵主義の考えが書かれていました。以後、陸軍は火力よりも白兵を重んじるようになるのです。しかし、この将軍の言葉は、結果あってこその「後出しジャンケン」だった気がします。

 というのも当時の世界では、白兵主義は少しも時代遅れでもなく、少数派でなどなかったのです。攻勢主義、攻撃主義もまた世界の陸軍では多数派でした。このことについては、すでに鈴木眞哉氏がだいぶ前から指摘しています(『謎とき日本合戦史』講談社現代新書、2001年)。 

 欧州の観戦武官たちは、機関銃や堅固な陣地、多くの火砲に守られた要塞に対しても、積極的な攻勢主義が可能だと報告しています。果敢な日本軍の突撃を見よ、これこそが兵器の進歩があり防禦者が有利に見えようとも勝利を得る必須のものだというのです。

 英国陸軍のアルサム少将は、「銃剣がいかなる意味でも古臭くなった道具ではなく、火力のみでは意思堅固な、軍紀厳正な敵を陣地から駆逐できない」と語りました。ドイツでは皇帝がたいへん感心し、銃剣術を取り入れるように指示したそうです。

 では次回では、第一次世界大戦が砲兵界にもたらしたものを検討しましょう。(つづく)

 荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。