陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(37) 第1次大戦で砲兵が学んだこと

□はじめに

 一気に冬がやってきました。ついこの間まで半袖にすれば良かったなどと思っていたのに。もう朝晩の冷え込みや木枯らしに厚着をしています。コロナよりも例年通り、インフルエンザが流行るとのこと。老人には危険がいっぱいです。

 いま、こつこつと新刊の準備中。現用の陸自砲兵装備からです。それがどうやって使われるのか、どのように維持されるのか、興味しんしんです。

▼フランス軍の精神主義

 第1次世界大戦(1914年)の勃発まで、フランス軍は砲火の恐ろしさを忘れていました。日露戦争での砲兵の威力などまったく学ばず、むしろ白兵突撃を評価します。1900年頃から徹底的攻勢主義、白兵突撃至上主義が人気をよびました。銃剣突撃だけが堅固な陣地や防禦火砲の威力を圧倒できる、まさに乃木第3軍の白襷(しろだすき)隊でした。突撃する将兵は撃ち返さない。ただひたすらに損害に耐えながら前進します。火力の重要さを指摘したペタン大佐は主流から外され、すぐに停年になってしまうという様子です。

 対してドイツ軍は「攻撃とは火力を前進させることだ」という主義でした。日露戦争に従軍したドイツ将校たちは榴弾砲や機関銃の効果をしっかり評価します。もちろん、最終的に白兵戦を否定などしませんが、日本軍が大口径榴弾砲や機関銃を大量に野戦に持ち込んだことなどを大変高く評価していました。

フランス軍は軽快な機動力を重んじ、機関銃の保有量は約2000挺でしかありませんでした。対してドイツ軍は5000挺を配備したといいます。

師団砲兵もフランス軍は75ミリ級の従来通りのカノンであり、榴弾砲は軍団以上の砲兵隊にしか与えられません。ドイツ軍は師団砲兵にも10センチの榴弾砲を与えます。当時の両軍軍団砲兵を比べると大きな違いが見えました。軍団というのはわが国ではなじみのない単位です。2個師団と軍団砲兵を主体にした組織です。これを指揮する軍団長はルテナン・ジェネラル(中将)でした。

欧州軍の師団はわが国の師団のように規模は大きくありません。これはドイツから招いたメッケルの進言によったようです。わが陸軍の師団は当時としては大型でした。2個歩兵旅団4個歩兵聯隊を主体にして、それに特科隊(砲兵・騎兵・輜重兵・工兵などの支援兵科他の部隊)をつけたものでした。したがって中将の師団長の下には2人の旅団長がおりました。旅団長は少将(メイジャー・ジェネラル)です。対して欧州軍の旅団長はわが国の階級にはない准将でした、米国軍でも階級名はブリゲーダー・ジェネラルです。それを訳して准将としました。BRIGADEとは旅団のことをいいます。

現代でもそれは変わらず1つ星の将軍は旅団長になります。したがって欧米軍の師団長は少将であり、階級章は2つの星です。ところが、いまの自衛隊では旅団長は旧軍と同じく少将(2つ星の陸将補)が務め、その下の1つ星はありません。外国軍人がしばしば混乱するのはそこです。親しいはずの米軍人も、陸自の1佐(大佐)が昇任して陸将補(少将)になると2階級の昇任かと驚くとも聞きました。

▼独仏両軍の軍団の違い

当時の欧州軍の軍団というのは2個師団とその直属砲兵が主体です。もちろん師団には師団砲兵がありますが、これは多くが軽砲(75ミリ・クラス)ばかりでした。

ドイツ軍の軍団を見てみましょう。歩兵24個大隊(つまり8個連隊)、77ミリ野砲が108門、105ミリ榴弾砲は36門で以上が主体です。そうして150ミリ榴弾砲が16門、これが軍団砲兵でした。火砲の合計は160門です。対してフランス軍の軍団は歩兵28個大隊、75ミリ野砲120門それに重榴弾砲が12門から16門、合計で約130門となりました。

こうしてみると、フランス軍は歩兵の数と野砲で優勢、ドイツ軍が105ミリ榴弾砲や150ミリ同で優位に立ちます。それにドイツ軍はベルギー領のリェージュなどの要塞を攻略するために42センチ榴弾砲(列車砲と車輌牽引)と自動車牽引の30センチ榴弾砲を用意していました。

▼火力無視の惨敗

 リェージュ市を中心に、5~8キロメートルの間を空けて12個のコンクリート製円形要塞は約4万の将兵と21センチ臼砲以下の400門の火砲を備えていました。ドイツ軍はこれの攻略を目指します。国境周辺の6個旅団を平時編制のままに密かに出動させて、8月3日から奇襲を行ないました。このときは15センチ級以下の火砲だけです。これが失敗、12日以降に42センチ榴弾砲を投入し、ようやく堡塁を爆砕することができました。ドイツ軍の使用兵力は8万、火砲600門といわれます。

 国境の遭遇戦はすさまじいものでした。8月20日から22日にかけて行なわれました。フランス軍は各地で勇敢な突撃を敢行します。ところがドイツ軍の火砲によって大損害を受けました。24日に出されたフランス軍の訓令は以下のようでした。

 (フランス)歩兵は密集隊形で戦闘に相次いで投入された。そのためにただちに敵火に暴露して甚大な損害を受けた。攻撃は必然的に阻止され、敵の逆襲に遭っている。歩兵は互いに十分な距離をとって、砲兵の射撃の掩護下で戦闘を行なうべきである。

 攻撃のためには常に、まず、砲兵の準備射撃を行なわねばならない。砲兵の射撃効果が現われないうちに遠距離から歩兵を攻撃前進させると、いつも敵の機関銃火に大きな損害を受けることになる。

▼わが陸軍参謀本部の受け止め方

 この戦いからの教訓を日本陸軍参謀本部はしっかり受け止めています。ドイツ軍は築城を重視していたこと、重砲を野戦軍に採用して無形上の威力に物資的威力を添えようとしたこと、フランス軍は無形的威力を過信し、野戦築城を排斥し、火器を蔑視し、重砲などは面倒くさいもの(煩累物)で野砲こそが歩兵の強襲を支援するとして極端に白兵戦法を運用していたことなどを挙げています。

 重砲とは15榴、12榴、10加のような野戦重砲をいいました。無形上の威力とは、将兵の勇気や戦意、いわゆる精神的な戦力です。フランス軍の失敗をあくまでも冷静に、突き離すように論評しています。しかも、日露戦後のわが軍隊の風潮、形而上(けいじじょう)の優秀さで形而下の不備を補おうとするのは間違っていると主張していました。

後になると、銃剣突撃を当然とし、火力の劣勢は精神力でなんとかできると主張したと参謀本部はすっかり「愚か者」扱いですが、当時は決してそうではありませんでした。(つづく)

 荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。