陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(11)陸軍兵学寮の雑談

□はじめに

珍談奇談だらけの異文化流入について、雑談風にご紹介したいと思います。とにかく列強に追いつくためには、その装備・兵器や用兵、さらには組織までも丸ごと導入しなくてはなりません。幕末以来、それぞれの大名家には軍隊があり、さまざまな外国からの兵制・装備の受け入れがありました。その実態は、オランダ式、プロシャ式、英国式、フランス式などなど。

▼明治初めの聯隊・大隊旗

 1870(明治3)年4月17日、明治天皇は「駒場野(こまばの)」で初めて聯隊大操練をご覧になりました。駒場野は現在では東京都目黒区にあり、当時は広大な原野でした。地名の由来は、徳川幕府の馬の訓練場があったことからです。そこに集まった諸藩の軍隊ですが、フランス式、オランダ式、プロシャ式、英国式とさまざまで、被服、装具、兵器、号令、喇叭(ラッパ)も異なり、まことに統一指揮が難しかったといいます。

 藩ごとにひるがえる旗章もばらばらであったので、統一された10旈(じうりゅう)の聯隊旗と16旈の大隊旗が交付されたそうです。この聯隊旗は、のちの軍旗と同じように日章を中心にして16条の光を出したものですが、そのサイズは大きかったようでした。縦は4尺4寸(約133センチ)、横は5尺(同152センチ)というものです。周囲に総(ふさ)もないものでした。(『帝国陸海軍の光と影』大原康男、展転社、2005年)

のちの正式な軍旗が歩兵の場合、縦2尺6寸4分(約80センチ)、横3尺3寸(同1メートル)で、周囲には紫の総(ふさ)がつき、竿頭には菊花のご紋章がついたものと比べると、ずいぶん簡素なものでした。まあ、最高指揮官の陛下の前で、とにかく統一された姿を見せるための苦肉の策の一つでしょう。

この旭光のデザインも当時の兵部省(ひょうぶしょう)で軍制の整備を担当していた山田彰義(やまだ・あきよし、1844~92年・元長州藩士・のち陸軍中将・伯爵)兵部大丞(だいじょう)や原田一道(はらだ・かづみち、1830~1910年・元幕臣・後陸軍少将・男爵)、曾我祐準(そが・すけのり、1844~1935年・元柳川藩士・のち陸軍中将・子爵)などが協議した結果で決めたとあります。

▼原田一道のこと

 この原田一道は少年時代医学の道を志していました。備中国鴨方新田藩の医官の家に生まれて、本藩である備中松山藩の山田方谷(やまだ・ほうこく、1805~77年)の教えを受け、江戸では蘭法医である伊藤玄朴(いとう・げんぼく、1801~71年・幕府奥医師)の下で蘭学を学び、砲術知識などを評価されて幕府に出仕します。

 この伊藤玄朴も蘭法医として最初に奥医師になりました。拙著『脚気と軍隊』でも触れましたが縁故の蘭学者を引きたて、有名な緒方洪庵なども幕府奥医師になりました。ただ、いささか強引な人柄で、かつ権力欲も強かったようです。末路は日本陸軍最初の軍医総監松本順に弾劾されて幕府から追われるように引退します。

 一方、原田は幕臣として順調に活躍し、幕府の遣外使節団に同行しパリで学び、続いてオランダの陸軍士官学校に留学しました。彼のハーグでの留学時代にはサーベルを帯び、洋式の軍服を着た肖像写真が残っています。専門家によると、これは幕府陸軍の制式ではなく勝手に作ったものだろうと言われているようです。ズボンにはサイドストライプ、袖にも襟にも金筋を巻いて、キャップ型の軍帽もかぶっています。

 帰国した時にはすでに幕府は瓦解していました。しかし、貴重な外国軍隊の経験者、しかも本格的かつ傾倒的な将校教育を受けてきた人でした。すぐに新政府に引き抜かれ、兵部省で働くようになりました。

▼教育の混乱

 1869(明治2)年の陸軍大坂兵学寮(大阪と表記されるのは71年から)の職員録を見た柳生悦子氏によると、頭(かみ)、権頭(ごんのかみ)が空席で、権助(ごんのすけ)が最高官。それが原田一道だったとのことです。その下は権允(ごんのじょう)しかおらず、川勝広道の名があるとのこと。川勝はたしか横浜仏語学所長でした。

 教官たちも全国から集められたオランダ式兵学の研究者や、幕末にフランス式伝習を受けた人などが集まっていて、ずいぶん混乱したものでありました。フランス式と決定する前のことですから、さまざまな意見も出ていた頃です。

 当時、新しい兵制については大きな対立がありました。大村益次郎は近代陸軍の祖とされています。いまも靖国神社に立つ像で有名です。彼は長州出身で天才的な人でした。やはり蘭学者出身で、幕末には長州藩の兵制改革を行ないました。大村が考えていたのは大坂兵学寮で御親兵士官(政府直属軍)を養成し、その部下は農兵、つまり庶民出身の徴兵によるということです。京都の時代には、そうした論者が勢力をもっていました。

 ところが、兵学寮が大坂に移転し、原田が兵学権頭になります。原田によれば卒業生は各藩に帰してしまうというのです。各藩に帰して、各藩軍の指揮官、教官にしてフランス式兵制に統一するとのことでした。しかも、七道に鎮台を置き、そこには藩兵を入れる、東京と京都には各鎮台から交代で兵を派遣するという構想まであったようです。

 七道というのは古代からの行政単位のことです。南海道、山陰道、山陽道、東海道、東山道、北陸道、西海道になります。実際に整備された鎮台は(1876年)第1が東京、第2が仙台、第3が名古屋、第4が熊本、第5が広島、第6が熊本でした。全国6鎮台です。 

▼厳しかった教育、原田と揖斐

 1870(明治3)年11月には兵学寮生徒志願者の少なさに危機感をもった政府は、厳しい態度で各藩に「貢進生」を差し出すように命じます。藩の規模によって9人から3人の生徒を差し出せという布告が出されました。

 集められた生徒たちは大変な目に遭います。術科教官筆頭の揖斐章の存在です。揖斐は1844年、幕臣の家に生まれ幕府陸軍歩兵指図役頭取(大尉相当官)として鳥羽伏見の戦いで負傷します。1867年からのフランス軍シャノワン大尉らの教え子です。幕府の瓦解時には撒兵頭並(少佐相当官)を務めていました。大村益次郎に招かれ、京都の河東で教官を務めてもいます。

 のちに1871年には少佐に任用され、つづいて大佐に進み、西南戦争の田原坂でも重傷を負うといった歴戦の士官でした。この揖斐がたいへん生徒たちばかりか、同僚教官たちからも評判が悪いのです。

 原田と揖斐、このコンビは欧州式のやり方を徹底しようとします。さまざまなトラブルや軋轢があるのは、この時代の特徴でありますが、「西洋かぶれ」と悪口を言われた2人、「幕臣風情が・・・」と陰口を叩かれた2人、きちんと仕事をしたようです。

 詳しい中身は、『史話まぼろしの陸軍兵学寮』(柳生悦子、六興出版、1983年)を参照してください。今日はふだんには書かない雑話です。