陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(34)火砲国産化時代

2023年11月2日

▼砲塔砲台とは

 せっかく注文したクルップ製38式野砲はとうとう戦争に間に合いませんでした。ロシア軍は砲身後座式の野砲をもっていたのに、わが国は砲車後座式だったのです。砲身を車の車軸に取りつけていただけなので、発射反動で砲は後ろに下がってしまいました。それを元に戻すのは人力であり、新しく照準をつけ直さねばなりません。

 砲身後座式では砲架は動かず、砲身だけが後退して駐退機という装置で元に戻したものでした。その駐退機は空気や液体の圧縮によるものです。それが38式と名付けられたクルップ社の製品はすべてその方式によりました。

 日露戦争の教訓では曲射が有利とされました。曲射とは平射に対する言葉です。主に平射は加農(カノン)が行ない、直接照準(敵を目にしながら狙い撃つ)で戦いました。砲兵同士が互いに敵の陣地を見、発砲の火煙を見ながら撃ち合うのです。この対砲兵戦ほど激しい戦いはありません。傍観した歩兵の目からみても、その凄惨さと砲兵の勇敢さに励まされたものだったようです。

 しかし、勇ましくても損害が出すぎました。そこで敵に見えない位置から射撃できるようにと「方向板」を使う間接射撃(照準)が実用されます。方向板というのは、シンプルな測角器です。これを高地、山上などに置いて、射撃目標と砲車が狙う目標、たとえば砲車から見える遠くの山の上の一本松の位置との関係角度を測ります。これを砲車に伝えて、火砲の照準器で一本松を狙えば砲車は射撃目標に向くことになりました。

 このように山越えの敵を狙えるようになると、曲射砲である榴弾砲や臼砲になります。日露戦争の野砲兵は緒戦では両軍ともに、山の稜線などに放列を布いて眼下の敵を直接照準で撃ち合いましたが、後半になると巧妙に隠された陣地から間接照準で射撃をするようになりました。

▼純国産火砲41式山砲

 31年式速射野砲には軽量化した山砲がありました。同じ弾頭を撃ちだしましたが装薬量を減らすことで各部への負担を減らし、分解して駄載したり、人力で運んだりすることができたのです。

 野砲が新式の38式になることで山砲を開発することになりました。開発の中心になったのは陸軍技術審査部審査官である島川文八郎(しまかわ・ぶんはちろう)砲兵大佐でした。島川は三重県津藩士の息子で1868(元治元)年の生まれで、旧制7期の陸士生徒です。砲兵大尉としてベルギー、続いてフランスに留学します。日露戦争では野砲兵第3聯隊長として出征、研究畑を歩んでも、その実兵指揮は優秀そのものだったそうです。1919(大正8)年には陸軍大将に昇進しました。

 新山砲の条件はいくつかあります。何より1馬の駄載能力の限界があるということです。分解して背に負わせて機動しますが、わが軍馬の能力は欧州馬にひどく劣るものでした。次に分解組み立てが必須ですから、部品数を増やさない、しかも操作が簡単、夜間の不整地でも駄載と卸下(しゃか・降ろすこと)を容易にするために形状を考えるといったものです。

 島川は部下とともに、懸命に工夫を重ね、1906(明治39)年12月には甲号、翌年8月には乙号という名称で試作にかかることが認可されます。そうして1909(明治42)年には試製砲が竣工し、4月から試験射撃や同行軍を行ない、さらに改良点が指摘されました。

 1910(明治43)年6月に制式制定が上申され、翌年12月に制定が発布されます。機動のときには6馬に載せ、輓曳なら1~2頭でできました。砲身の全長は1300ミリ、重量は約100キログラムです。放列重量は539.5キロ、弾量は5710グラム、初速は360メートル/秒で最大射程は6300メートルとあります。

▼余話としての歩兵聯隊砲

 この41式山砲は歩兵によっても使われました。満洲事変(1931年)前には歩兵聯隊長が自由に使える重火力ということから「聯隊砲」といわれる火砲の配備が決まります。それまでも歩兵には敵機関銃陣地を攻撃する平射砲や、迫撃砲である曲射歩兵砲などがありました。しかし、さらに威力のある火砲をという要望が出たのです。当時、山砲装備の砲兵聯隊は4個、台湾山砲兵大隊のみでした。

 比較の対象として試製の重歩兵砲と92式歩兵砲、41式山砲が用意されていましたが、何より威力があったのは41式山砲です。しかし、軽量ということでは92式でした。重歩兵砲は重く、駄載、卸下、組み立てなどに手間がかかり最も評価が低かったといいます。

 92式歩兵砲は軽量で、しかも曲射にも平射にも使えるという長所がありました。しかも、歩兵大隊に大隊砲小隊として2門を配属することが決まっています。これに聯隊砲として4門の92式歩兵砲を加えれば、3個大隊の6門とあわせ聯隊で10門の重火力がそろいます。しかも弾薬の補充が統一され兵站面でも有利であると思われていました。

 大方の議論が終わる頃、満洲事変から続いて熱河省や北支などでの戦闘が始まります。敵は正規兵が多く、火力が重要であることは何よりであり、現場からは41式山砲を待つ声が大きくなりました。すでに歩兵の近代戦への志向は重火力要求というところに現われてきていたのです。軽い砲の数を揃えるより、より強力な火砲を持ちたいという現場の切実な願いでした。

 歩兵用に小さな改修を受けた41式山砲(歩兵用)は1936(昭和11)年頃から製造が開始されました。これ以後になると、甲装備の歩兵聯隊は各大隊に歩兵砲小隊、自動砲小隊をもち、聯隊長直属の歩兵砲中隊、対戦車用に速射砲中隊などがそろうようになりました。(つづく)

 荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。