陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(19) 加農か榴弾砲か

□はじめに

 猛暑の中、あるいは豪雨が続く中、みなさまいかがお過ごしでしょうか。3連休の初日、横須賀は薄曇りの空でした。軍艦三笠のすぐ隣のフェリー乗り場から自衛官OBの方々と猿島砲台に行ってまいりました。猿島は無人島で、いまは自然公園として管理されています。明治初めの要塞の遺構が、島内には散在し、加農砲台も確認できました。煉瓦はやはり初期のフランドル(フランス)積みでした。

 すぐ目の前、8キロ余り西方には房総半島がすぐそこに見えます。富津(第1)海堡、第2海堡がしっかり存在し、猿島からの砲撃とあいまって侵攻する敵艦艇を確実にとらえることができます。

 今日は、その当時の新しい砲台建設を行なう時に起きた論争をご紹介します。

▼砲種選定について

 1886(明治19)年に、陸軍は「臨時砲台建築部」をおきます。その部長には内務大臣山縣有朋が兼任として就任しました。翌87年12月に山縣は「砲台装置の砲種選定に関する建議」を提出します。

 

 すでに「海岸砲制式審査委員」が結論として出した榴弾砲もしくは綫臼砲を設置するという結論に反対意見を出しました。

大口径の榴弾砲は威力も大きく、落下速度も高いので敵艦の装甲がない甲板部や艦上構造物を破壊するのに向いています。また、砲身が短くても(おおよそ10口径以下)内部に綫(ライフリング)があり、命中精度の高い臼砲を海岸砲台には備えるべきだというのが制式審査委員の結論でした。

これに対して山縣は主張します。擲射、曲射弾道の榴弾砲や臼砲ではなく、平射の加農を採用すべきだと言うのです。

「高速で移動し、あるいは砲台の付近に運動する戦艦に対しては、榴弾砲や臼砲では命中させるのが難しいというのは論議するまでもない。たとえ、命中時の効果が大きくても、その命中が期待しにくい。やはり、この種の砲は大距離でも甲板に対する平射砲の威力が足りない時にこそ補助に使うべきだ」というのが主旨でした。

平射砲(加農)の長所についても述べています。「たしかに命中は確実だけれど、(加農の)数弾が当たったくらいでは敵艦の命を絶つ(撃沈する)というわけではないというが、運航すること、あるいは戦闘不能にさせれば戦闘の目的は達するのだ」

また、委員たちは費用軽減のために加農を採用しないというが、多数の榴弾砲をもてば平時の維持経費が相当なものになる。加農は高価であっても砲の数は少なくても良い。そのうえ、加農は国産できないというなら海外から輸入すればいいと山縣は言いました。

こうして、国産榴弾砲の開発、生産とあわせて、欧州製の大口径加農の輸入が決まりました。結局、山縣の加農優先よりも榴弾砲の生産・配備が進みます。

1892(明治25)年までに全国から集められた海防献金によって海岸砲は212門も造られました。うち28珊榴弾砲は110門、24珊臼砲は34門、15珊臼砲も11門を数えます。そうして研究用に買われた外国製加農を模倣して造った27珊(2門)や24珊加農(28門)もすべて国産化されていました。

有坂成章砲兵大尉も山縣の意見に反対します。榴弾砲の利点は、「敵艦の甲板を射透(しゃとう・射抜くこと)し、その生命を絶つことができる。加農などは、要撃(ようげき・防禦用の攻撃)など特殊な場合に用いてもいいが、確実に敵艦の甲帯(こうたい・舷側装甲)を射貫(しゃかん・貫くこと)することは望むことはできない」ということです。

▼有名な28珊榴弾砲

 日露戦争の当時にはすでに各地の要塞に配備されていた28珊榴弾砲。旅順要塞の攻略に使われ、つづいて奉天会戦という野戦にも参加したことで有名です。この砲はイタリア陸軍のグリッロ少佐によって設計されたものです。砲身は鋳造で、イタリアからグレゴリニー鋳鉄を輸入して使いました。

 1884(明治17)年にその第1号砲が完成し、泉州(和泉国)信太山(しのだやま)射場で試験を始めます。信太山は大阪府和泉市、練兵場もあり、のちに野砲兵第4聯隊、現在は陸自の第37普通科連隊が駐屯しています。歌舞伎に詳しい方なら聖神社の白狐(びゃっこ・葛の葉)伝説で名高くもあります。

 古い記録を読んでいますと興味深い発言や思い出が出てきます。大正時代の『砲兵会記事』という部内の研究書があります。その中に田島応親(たじま・まさちか、1851~1934年)という砲兵大佐の言葉が残っています。田島大佐は幕府旗本の家に生まれ、フランス語伝習生から幕府陸軍砲兵隊に所属、維新後は陸軍に入ります。フランス公使館付武官も務めますが病気を理由に退役しました。こういう歴史の証人は貴重です。

 さて、田島によれば、「不思議にも28珊砲が大変な効力を現はした」というのですから、読む側はあれれです。田島大佐によれば、「どうしても旅順が落ちない。何かもっと威力のある大砲を持ってくることはできないか。そんなら、あの古くからある榴弾砲、あれは弾も大きいから、もしや役に立つかも知れない。とにかく、もっていったらどうか・・・」ということが起こりのようです。それにしても田島大佐も「不思議にも」ですから、当時の人はどうだったのでしょう。

 次回はこの巨砲の実像を伝える話を集めてみましょう。『大阪砲兵工廠の研究』(三宅宏司、思文閣出版、1993年)には多くの逸話が書かれています。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。