陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(18)要塞の造り方

□はじめに

 セメントとコンクリート。身近にどこにでも見られる石灰石を原料としたセメント。子供の頃に、「わが国が自給できるのは石灰石だけ」と聞いて、なんとも頼りなく、寂しい思いをしたものでした。なんだ、石油どころか石炭もない、ほんとうにニッポンは貧乏なのだろうなと思いました。

 それが、小学校の高学年になる頃には、首都高速(道路)が走り、東名、名神の自動車専用道、さらには東海道新幹線が次々と生まれます。高層ビルが生まれ、街の中のそこここにコンクリートミキサー車が走っていました。山の奥では巨大なダムが造られ、セメント会社の名前をつけた国鉄(いまのJR)の専用貨車もよく目にしました。

 地下鉄建設も次々と進み、鉄筋コンクリートという言葉もよく耳にするようになりました。鉄の棒が何本も植えられ、その周りに木枠が組まれて、そこへドロドロのコンクリートが流し込まれています。ははあ、頑丈になるはずだなどと思っていました。

 今日は要塞建設とコンクリートの話をしましょう。

▼セメント、コンクリ、モルタル

 セメントとは何か。コンクリートの原料だという回答が多いと思います。そうです、石灰石や粘土などを「焼成(しょうせい)」します。窯(かま)などで高熱を加えて変質させることをいいます。そうして粉砕してサラサラの粉状にした無機質系接着剤をセメントというのです。わが国では、ふつうにポルトランド・セメントといわれます。よく目にするコンクリートやモルタルの原料です。え、接着剤というと驚かれるかもしれませんが、煉瓦などをくっつけていますね。

 セメントは、石灰石や粘土、珪石(けいせき)、酸化鉄などを含んでいます。水に溶かして乾燥すると、硬くなり接着力もありますが、収縮性、ちぢむことがあります。よく建造物にひびわれなどができるのは、その結果です。

 コンクリートは、セメントに水や砂利を加えて練ったものをいいます。水や砂利を骨材(こつざい)というそうですが、大きな砂利なら粗骨材といい、小さな砂利なら細骨材と分けています。乾くと圧縮力には強いようですが、引張力には弱い、だから鉄筋を入れると建築の本には書いてあります。

 モルタルは骨材としては水と砂だけです。軟らかく、接着剤として使われます。煉瓦やブロックなどを組むときに使われます。

 ところでポルトランドとは? これはイングランドの地名です。1824年にはレンガ積み職人が英国で「人造石製造法の改良」という特許を取りました。石灰石を焼いて「生石灰」にして粉砕して粘土を加え、もう一度焼成するという方法でした。

それで得られたクリンカー(焼塊)を砕きました。これに水を加えてモルタルにして煉瓦積みに使うというわけです。それが固まった様子がポルトランド島(ドーバー海峡に面した半島)で産出された石灰石に似ているというところから命名しました。

▼わが国での歴史

 ポルトランド・セメントの製造特許が英国で取得されたのが1824(文政7)年のことでした。それが改良されたものをジョン・バズレー・ホワイト社が発売を始めたのは1844(弘化1)年のことです。

 わが国で初めて輸入されたのは、徳川幕府直営の長崎製鉄所で水中工事用に使うためでした(1864年)。世界ではその頃、1867年にはフランスの造園家が鉄筋コンクリートの特許を得ます。

 明治になると、1869(明治2)年には野島崎灯台(千葉県白浜町・房総半島の南端)が点灯を始めます。この洋式灯台を建設するためにフランスから20樽のセメントが輸入されたそうです。翌年には品川、城ヶ島の両灯台が使われ始めました。いずれもフランス製のセメントです。

 1872(明治5)年になると国産化への努力が始まります。大蔵省土木寮建築局が、現在の江東区清住町の仙台藩屋敷跡に「摂綿篤(セメント)製造所」を建設します。そうして1875年には国産初めてのセメントを焼成することに成功します。

 1878年になると、工部省の管轄下になっていた深川工作局分局(清住町の工場)で、製造量が月間500樽を同1000樽に倍増します。1樽は36貫(135キログラム)ですから1000樽は135トンになりました。年間生産量は1620トンだったそうです。(「東京湾第3海堡建設史」)年間輸入量は1165トンといいますから、ほぼ同じ。

 1881(明治14)年には民間会社が設立されます。山口県厚狭郡西須惠村小野田新開地に工場が生まれました。のちに小野田セメントとなる会社のスタートです。1884年には工部省が深川工作分局の工場を浅野総一郎(あさの・そういちろう)に払い下げ、工場は拡大されました。翌85(明治18)年には浅野セメントは東京湾富津海堡用にセメント172樽、横須賀市の走水(はしりみず)砲台用に600樽を納入します。

 この浅野深川工場は1887(明治20)年には、焼窯14基、乾燥場5カ所、石灰窯1基となり、月産3000樽(405トン)、年産では4860トンとなりました。日清戦争(1894~5年)の後には浅野セメントは現北九州市の門司にも工場を開き、年産9万2800樽(約1万2500トン)となります。

 興味深いのは、小野田セメントにしろ、浅野セメントにしろ東京湾要塞の建設にともなって発展していったところです。

▼要塞砲の配置方法

 まず砲を複数おくための砲座、観測と射撃指揮を行なう観測所、すぐに使う弾薬を置く砲側(ほうそく)弾薬庫、信管や火薬・装薬の整備・充填を行なう弾廠(だんしょう)、砲の整備用具などを納める砲具庫、兵舎と平時に衛兵が駐在する監守衛舎などがあります。

 陸軍では、第1種(砲戦砲台)、第2種(砲戦砲台を兼ねる縦射・横射砲台)、第3種(縦射砲台)、第4種(横射砲台)、第5種(要撃砲台)、第6種(上陸及要塞防禦砲台)と厳密に規定されていました。しかし、普通には砲戦砲台(敵艦艇の撃破・撃沈を主とする)、要撃砲台(海峡や湾口、狭水道などで敵艦艇を迎撃する)、側防砲台(隣接した砲台の死角を補う)ぐらいの区分をされています。

 砲座の構造では、露天、隠顕、砲塔式がとられていました。明治の頃には航空攻撃のおそれがないので、主に露天式でした。有坂が主張したのは隠顕式だったようです。砲架に工夫があり、射撃前には隠れていて射撃時にはもちあがり、射撃後の装填時には再び下がって正面から見えにくくなるというものです。

 砲塔が望ましいのは天気の影響が受けにくいことでしょう。風雨にさらされないということには大きなメリットがありました。天蓋(てんがい)という密閉式の屋根があり、旋回もできました。しかし、国産火砲に採用されなかったのには、当時の鉄筋コンクリート技術に信頼が寄せられなかったのではないかと思われます。 

 次回はいよいよ有名な28珊榴弾砲について書きましょう。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。