陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(16)東京湾防衛の要塞(4)

□はじめに

 明治15(1882)年、「日露戦争の軍事史的研究」で高名な大江志乃夫氏は、日本陸軍は外征型(国外に出征する、できる)に変わったと主張しています。それが今でも定説になっているようですが、この「外征型」という言葉が、のちの「大陸侵攻」とか「中国侵略」という認識の元になっている、もしくは語源にもなっているのではないでしょうか。

 それはそれとして、陸軍が「内地の治安維持」型から外向型になったことは確かです。明治建軍期から鎮台、つまり鎮(しず)めるための拠点の整備を考えていました。それが戦時特設の旅団(移動する軍隊)になり、それらをまとめて師団を基本単位にしました。

すなわち外国軍を敵として想定する近代独立国家の軍隊に変貌したのです。そのため兵器や軍隊の訓練・教育体系もそれに対応して変化していきました。

 この時代を俯瞰してみると、欧米諸国のアジアへの侵略は1840年からアヘン戦争をきっかけにして確定的となりました。清国の各地は次々と列強の手にするところになったのです。そのうえにロシアの南下政策があり、地政学的な重要地、韓国について清国とは対立していきました。

 その明治中期まで、わが国の兵器技術はまだまだ未成熟でした。欧州にははるか昔から錬金術などで知られているように金属に関わる基礎技術の蓄積がありました。製鉄についても高熱を出すことができるコークスの発明や蒸気機関の採用などで大きな技術の壁があったのです。

 そうした中で、1882(明治15)年12月には軍備拡張の詔書が出され、海軍には軍艦建造の命令が出されます。この年の事件では7月に朝鮮の兵士が反乱を起こし、日本人教官を殺し、公使館を襲うということがありました。これを「壬午(じんご)軍乱」といいますが、日清両国の緊張は高まります。

▼政戦略構想の難しさ

 純然たる島国のわが国。現在の憲法に決められ、多くの方々がいまも信奉する専守防衛とは国土を戦場にすることです。その覚悟で戦争に臨むとはまあ、なんと勇敢なことでしょう。明治の先人たちは、そう考えませんでした。国土を戦場にしてたまるか、いまも話題になる敵基地攻撃論です。わが軍隊は必ず海を越えねばなりません。

その軍隊を輸送するには制海権が必要です。わが国は陸海両方の軍備を充実させねばなりません。そういう苛酷な条件がありました。徳川幕府が開国を決断したときから課された宿命でもあったのです。しかも開国は欧米諸国からの強制によるものでした。わが国が自ら求めたものでは決してなかった、それが近代史を語る上で最も重要なところです。

 そのため、参考にする欧州の戦術、戦略論はありませんでした。何も知らない子供がいきなり大人の社会に放り込まれたのです。学ぼうにも同じような立場の先進国はどこにもありません。フランスだろうがプロシャだろうが、そのまま適用できるような理論がないのです。

▼戦略、戦術

 戦争とは何か、軍隊が軍隊とが兵器を使って戦うこと、あるいは国家間や国家と交戦団体の争闘、2つの国家や2グループに分かれた国々が武力を用いて互いに敵対行為をする状態などと国語辞典には書かれています。外形的な定義はそれでよいと思いますが、意義については正確なものではないようです。

 プロシャの軍人だったクラウゼヴィッツは次のように有名な定義を述べています。「戦争は他の手段を以てする政治の延長である」。これが現在では多くの人が認める説得力をもっている定義です。戦争とは政治が行なった最高でかつ最終の結論が具体化したものでした。軍隊はその結論の実行機関にしか過ぎません。軍隊がその結論を出すべきものではありません。

 そこから検討しますと、戦略を戦争指導の策略、つまり戦うための計画や方法という意味に使うと誤解が生まれます。戦略とはもともと「兵力をどう使うか」という方策であって、戦争指導の方策ではありません。戦争指導の方策は「政略」です。この政略と戦略の区別を無視したことが日本陸軍の犯した最大の失敗だったという論者が多くおられます。

 また、ふだんの軍事用語では、戦略は大部隊を運用する方策を戦略といい、小規模の戦闘部隊の運用の仕方を戦術といっています。

▼要塞の建設と有坂成章

 要塞とは砲台の集合です。東京湾には沿岸砲台と海上の堡塁(海堡)がありました。この海堡の建設のコンペに彗星のように現われたのが有坂成章(ありさか・なりあきら、1852~1915年、陸軍中将)でした。有坂はその名前がいまでも通用するアリサカ・ライフル(30年式歩兵銃)の設計者です。また、のちに紹介する31年式速射野砲・山砲の設計者でもありました。

有坂は建軍の当時は陸軍省文官でした。彼は1852年、周防国(すおうのくに・山口県)岩国家中の火薬技術者の藩士の家に生まれます。

 この岩国吉川(きっかわ)家は不思議な大名家です。関ヶ原の戦い(16世紀末)の頃には、毛利本家を支える一門の筆頭といえる立場でした。毛利家当主が西軍(反徳川)の旗頭に担ぎあげられましたが、それを吉川広家がなんとかとりなします。毛利家が戦後処理で潰されることを防ぎましたが、徳川家の大名になることはしませんでした。岩国で3万石を得て毛利家の分家のような扱いを受けました。

 生家では次男だった成章は11歳の時、砲術家だった有坂家の養子となります。祖父にあたる人は長崎の町役人だった高島秋帆の門弟であり、徳丸ヶ原の調練展示にも同行していました。造兵技術にも通じていてモルチール砲なども鋳造しています。

 有坂は幕末には岩国藩兵隊に所属していましたが実戦の場に立つことは、おそらくなかったようです。1869(明治2)年2月には東京の開成学校に進みます。開成学校はのちに大学南校といわれたところで、そこで英語を学びました。翌年には毛利家からの推薦を受けて、大阪にあった陸軍兵学寮に進みます(翌年、東京に移転しました)。

 フランス語を学んだ有坂はお雇い教師の砲兵大尉ルボンから指導を受けました。ルボン(1845~1923年、最終階級は中将)はナポレオンのつくった工科大学に入校します。優秀な人で建築設計、機械設計、さらには工学教育にも通じて、明治陸軍の基礎を指導します。来日したのは1872(明治5)年の軍事顧問団の砲兵科長でした。

有坂はこの人の薫陶をうけつつ技術者としての才能を開いてゆきました。1873(明治6)年6月には兵学寮を中退しますが、同年末には教官になります。その肩書きは陸軍省11等出仕とあり文官でした。翌年には陸軍造兵司(のちに陸軍兵器本廠)の土木に転勤します。

 この人事の裏には東京湾要塞の富津岬(千葉県富津市)の砲台建設計画と関わるというのは兵頭二十八氏です。氏は有坂の履歴から、マルクリー参謀中佐、ルボン砲兵大尉、ジョルダン工兵大尉ら、仏人顧問団教官の通訳をし、山縣有朋にも報告をしていたのではないかと十分に説得力のある説を展開しています。

 要塞建設、砲台の整備は着々と進みました。1878(明治11)年には富津岬で測量が行なわれます。翌年は富津岬の洲崎で地質調査を始めました。その10月には有坂は「第1工兵方面」付きに異動します。工兵方面とは耳慣れませんが、関東以北の土木設備や要塞、架橋などを管轄する官衙です。第2方面は中部地方以西を受け持ちました。

 近代砲台建設の初めは1880(明治13)年5月の観音崎第2砲台、翌月の同第1砲台が起工されました。完成は同時で1884(明治17)年6月のことでした。3番目になるのが、1880年に石材が発注され、81年8月に基礎工事が始まる富津の海堡でした。

 この海堡の設計図を出したのは砲兵局長だった原田一道砲兵大佐、測量の専門家小菅工兵中佐ほかの専門家たちでしたが、委員審議の対象になったのは有坂が出したものだったそうです。

 次回は要塞に供えられた砲について。

(つづく)

 

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。