陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(40)ドイツ・スパイとフランスの反戦議員
□はじめに
いま、自衛隊に対する執拗な国民からの信用を失墜させる議論がされています。セクハラ、パワハラ、事故、事件、なんでもかんでも自衛隊が信頼に値しないという論調がはびこっているように思います。じっさいのところ、起きた事故や事件は事実でしょう。ですが、あたかも自衛隊そのものの固有の体質であるかのような主張にはうなずけません。
まず、事件や事故に関わった者の全体に占める割合では、他の組織と比べるとひどく低いという事実があるからです。いや隠されているのだなどと因縁をつける人もいますが、それなら世間の会社ではどうでしょうか。不祥事もあるはずだし、もみ消されているセクハラやパワハラも多いのです。
そうした自国の軍隊に対する国民の信用失墜を図ることを、戦前社会では「軍民離間を図る」といいました。開戦前や戦中でも、それが多く行なわれたことはよく知られています。今のわが国社会でも普通の航空機に比べ、数字的に安全率が高いオスプレイの墜落を大きな声で報道する人たちがいます。誰のためにオスプレイの配備を止めさせようとしているのでしょうか。オスプレイがあると困る人たちは誰でしょうか。
第1次世界大戦でも同じように軍民離間を図る行為は行なわれました。フランスでは有名なマタハリをはじめとするドイツ軍スパイが活躍していました。
▼エーヌ会戦
東西両方に戦線をもっていたドイツは、再び東部へ攻勢重点を置くことにします。西部戦線は守勢をとることにし、1917年3月にはジーグフリード線といわれる後退して整備された防衛ラインを再編成しました。ただし、エーヌ正面だけは堅固な陣地があったこと、地形が有利だったこと、陣地が地下洞窟化していたことなどから後退はしませんでした。
4月から始まったエーヌ会戦はフランス軍の大失敗に終わります。ドイツ・スパイとそれに応じたフランスの反戦国会議員の活躍のおかげです。彼らは反戦・正義を掲げて、無益な人命の犠牲を出さないという理由で作戦についても口をはさみ、妨害活動も行ないます。フランス軍の作戦計画をドイツ軍に通報までしました。おかげでドイツ軍は十分な防禦計画の下にフランス軍の攻勢を待ちうけています。
4月5日から、ベルダンで成功した移動弾幕射撃をフランス軍は行ないました。10日間にわたって2020門の火砲と250万発の砲弾を撃ち込みます。攻勢正面は幅45キロ、兵力50個師団と戦車130輌でフランス軍は前進を始めました。
この攻撃前進は7時間にわたって計画されます。固定された時刻表にしたがって撃ち込まれる移動弾幕射撃です。しかし、反対斜面の採石坑道やシャンパンの地下醸造所などに潜んだドイツ兵がいました。彼らは砲撃に耐え、前進してくるフランス歩兵の前に、まさに湧きあがるように現われたのです。
天候不良もドイツ軍に有利に働きました。このときのドイツ砲兵の撲滅率は24%だったそうです。ドイツ砲兵はフランス歩兵の前進を阻止する射撃を行ないます。遅滞する前進、ところが移動弾幕射撃の実行は厳密な時刻表によってなされました。フランス軍の損害は19万人におよび、ドイツ軍は6万人にしかならなかったのです。
▼英国軍の大砲撃
フランス軍の攻撃の頓挫、そこをねらう反戦主義者たち、おかげで第一線でも逃亡、命令不服従、暴動が起きました。なんと54個師団で反乱の事実があったそうです。もう崩壊一歩手前という様相でした。これを防いだのは首相クレマンソーとペタン将軍です。
また英国軍は5月下旬から6月下旬にかけて24日間の攻勢をとりました。イーブルで戦車216輌の進撃に加えて、350万発の大砲撃を行ないます。それでも攻撃は成功せず、7月末には準備射撃430万発の大攻勢をとりました。しかし、それも失敗。25キロの正面で7キロしか前進できなかったそうです。
▼米国が参戦する
1917年2月にはドイツが無制限潜水艦戦を宣言します。英国海軍はドイツを海上封鎖し、貿易がほとんど途絶していました。オランダ、その他の中立国を通じて細々と物資を輸入していたのですが、とうとう継戦能力にも陰りが出てきます。もう一度、ここで「同盟国」グループと、「連合国」をまとめておきましょう。
同盟国グループはドイツ、オーストリア・ハンガリー、ブルガリア、トルコの4カ国です。連合国は英国、フランス、ルーマニア、ロシア、セルビア、そして我が日本の6カ国です。4対6になりますが、欧州大戦というくらいで日本は極東の国、実質4対5ということになりましょう。
ドイツの輸出の不振は当然、財政と金融の不均衡を生みました。不換紙幣の増発がされて、中立国でドイツ・マルクの価値が下がります。国内ではインフレが起きました。食料品も値上がりし、1914年8月から比べると16年の中ごろには、牛肉が約2倍、豚肉約1.2倍、卵が約2.3倍と上がります。オーストリア・ハンガリーではさらにひどく、それぞれ約3.5倍、約2.5倍、約3.3倍になりました。
そのうえ、各地の地域エゴのおかげで物資の流通はうまく行きません。もともとドイツ帝国は諸国家の連合体から始まりました。プロシャと仲が悪かったババリア地方では、プロシャの犠牲などになりたくないと農産物の供出を拒むという動きも出ます。死傷者の増加、約400万人も労働力不足を生みました。
こうした難局を打開するには何が必要か。ドイツ軍首脳は陸で勝てなくても海上では勝てると主張します。海上封鎖をどうにかすればいい、そのために潜水艦はあるというのです。当時の潜水艦は「潜ることもできる」という「可潜艦」でしたが、航空機は未発達、レーダー(電波探知機)、ソーナー(音波探知機)もなく、爆雷などの攻撃手段も貧しいものでした。
ウンターゼー・ボート、つまりドイツ潜水艦Uボートは海上交通路に網を張って待ち伏せ戦法をとりました。1915年には170万トンを撃沈し、16年の3月までには約52万トンを海没させます。軍は、この通商破壊戦で逆にフランスを封鎖し、英国を孤立させられると主張しました。
政府幹部は反対します。軍の主張は中立国船舶も沈めるという無制限潜水艦戦を必然とする。すると「準連合国」であるアメリカ船も攻撃対象にしてしまう。米国も敵にしてしまってはとても勝てる見込みはなくなるということです。
さあ、米国の参戦が何をもたらしたか。次回は詳しくご説明しましょう。(つづき)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。