陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(32)日露戦争の総決算(2)

□はじめに

 KYさま、いつもご愛読ありがとうございます。今回も素晴らしいご指摘に感服しました。「庶民の悲劇」に寄り添うのが戦後歴史学界の常識でした。「民衆はいつも被害者だった」、「地位の高い人間はいつも得をしていた」、そんな語り方、オハナシが正しいとされてきました。おかげで事実も隠されて、ずいぶん違った形、誤った定説が伝承されています。

実のところ、日露戦争では動員された軍隊の幹部不足が明らかになりました。学歴があった人(中等教育修了者)に「特権」と認識された予備役幹部養成制度であった「一年志願兵」出身の幹部(将校・士官、下士)のほとんど召集されました。そうして生まれたのがあの幹部の戦死率の高さです。もちろん、陸軍士官学校出の若い尉官も次々と亡くなり、生徒の募集数も大きく増やされたほどでした。

わたしが調べた地方のある町では、出征した地主、有力者の子息が二人、そのお二人とも戦死しました。第一線の予備歩兵少尉だったのです。他方、兵卒の出征者17人中、16人が帰郷できました。そうした実態も地方の市町村ではよく見られました。階級が高ければ戦死の賜金が多く、兵卒はお粗末だった・・・という研究もありますが、それも社会の実態の一部でありましょう。しかし、家族を失った哀しみは幹部だろうと、兵卒だろうと変わりません。

また、近代戦では死者の3倍の負傷者が出るといわれます。そうすると歩兵の尉官、佐官、下士は半数以上が死傷したのです。同じように砲兵もまた幹部の10人に1人は戦闘死し、負傷していました。幹部のとりわけ将校の死傷率が高かったのは工兵です。技術兵科ではありましたが要塞戦闘の最前線に立ち、ときには歩兵戦闘も行なった結果でしょう。KYさまのおっしゃる通り、先人に感謝し、事実を伝えてゆくことは大切です。

▼榴弾の不足に悲鳴を上げる

 とにかく足らない。撃っても、撃っても榴霰弾は掩蓋(えんがい・厚い屋根)付きの敵陣地には効かない。いくら上空で炸裂し、弾子が掃射されても、機関銃を据えた銃眼つきの掩蓋型陣地には効果がありませんでした。これはやはり効果があるのは榴弾だろうと現場は思います。たとえ炸薬が少なかろうと、榴弾なら直撃はしなくても敵陣の周囲に落ちれば、爆発力や破片で効果がある、そういったことでした。しかし、生産が間に合いません。

 ではロシア軍はどうだったか。やはり実情は似たようなものでした。1904(明治37)年8月末から9月初めの1週間、遼陽(りょうよう)で会戦がありました。ロシア軍は退却しますが、その理由は砲弾不足です。砲弾の準備ができたところで起きたのが10月半ばの沙河(さが)会戦です。ロシア軍はこのときも備蓄弾まで撃ち尽くしてしまいました。攻勢を中止して、シベリア鉄道で砲弾が運ばれてくるのを待つしかなかったのです。

 わが軍の状況も似たようなものでした。原因の大きなものは旅順要塞への攻撃です。すでに要塞攻略用に砲兵工廠では榴弾を増産し、榴霰弾の製造を抑えていました。さらには、銑鉄を使った榴弾の製造も研究しています。銑鉄とは「ズク」ともいい、クズ鉄を再生したものです。本来の鋼製榴弾とは強度も、破片威力もケタ違いに下がります。

 それでも国家の財布には優しい砲弾でした。しかも有坂砲兵大佐は砲弾の構造、信管の改良にも取り組みます。技術的水準も低い民間工場にも発注できるような工夫が数々されました。信管の装着位置も榴弾には「弾底信管」が常識でした。弾頭部が、堅い物に当たっただけですぐに作動したら地中にももぐらず、表面だけで炸裂してしまう。そこで、信管は作動時間を遅らせるために最も後ろに着けたのです。

 しかし、そのためには弾底に精密なネジの溝を切らねばなりません。それをせずに済ませて弾の内部に信管を入れる、こうした工夫をしたのです。この新しい榴弾と信管「新式弾頭信管」は12月以降に前線に送られてくるようになりました。

▼砲兵は臆病なり

 砲の射程を伸ばす方法の1つに仰角(ぎょうかく)を上げることがあります。31年式速射野砲はそれまで20度であった仰角を28度になるように改造されました。榴霰弾と違って、榴弾はどれほど落角(らくかく)が大きくなろうとも問題はありません。落角とは砲弾が落ちる時の角度です。榴霰弾はその性質上、なるべく最高弾道点で斜め下に弾子を放つので、落角が大きくなっては困ります。

 もっと上げればいいとも思えますが、砲架にかかる力が違ってきます。もともと水平に近いように反動を流す設計がもたなくなるのです。では、砲架を強化すればいいかとなると、それは重量を増やすことになり、輓馬の負担が増えてしまいます。

 大阪砲兵工廠からは多くの修理班が送りだされ、戦地で500門あまりの野砲に改造を行ないました。そうして射程は7000メートルに伸びることになります。

 また、厚さが3ミリ余りの鋼板製の防楯(ぼうじゅん)を砲身を囲むように装備します。これによって砲手はロシアの榴霰弾から身を守ることができました。暴露陣地で敵砲兵と直接照準で撃ち合う砲兵にとっては、とても重要なことです。しかし、このことは最前線で敵弾に身をさらして前進する歩兵たちから「砲兵は臆病だ」という非難を浴びることになりました。

 戦後の「偕行社記事」には様々な日本軍人の姿が語られます。中でも驚かされるのは、「地形・地物を利用して身を隠すのは卑怯だ」という気分があったということです。つまり戦闘とは、正々堂々、敵弾の嵐に身を隠すこともなく立ち上がることだ、撃たれても伏せたりしないということが軍人らしいと語られていたとかが目撃談、体験談としてたくさん出てきます。しかも、将校ばかりか下士・兵卒も同じモラルをもっていたというのです。

▼奮戦が認められなかった砲兵

 金子常規氏は奉天の会戦(1905年3月)を「再び機動・小銃の勝利の戦い」と指摘されています。それはロシア軍の野戦築城がたいへん強力で、15珊級の榴弾に耐える遮蔽をもったものだったということです。わが第4軍に28珊榴弾砲6門を配属しました。しかし、それにも信管不良などの原因で不発が多かったことは前にも書きました。

 そうしてせっかくの新式弾頭信管を備えた75ミリ野砲の銑鉄製榴弾も不具合が多かったといわれています。会戦でのわが軍兵力約25万、各種火砲992門(うち師団砲兵は約500門)、機関銃254挺でした。対してロシア軍は人員約31万、各種火砲1219門、機関銃56挺です。兵員の数こそ少ないものの、火砲はほぼ同等、機関銃では圧倒的に多数でした。

 2月20日、大山満洲軍総司令官は訓示を出しました。その内容は敵の捕虜の創種(負傷の種類)をみると砲弾創が大変少ない、どころか無いといってもいいらしい。砲弾は備蓄も不足し、砲撃は最大の効果をあげるべく射撃せよ・・・という内容でした。盛大な爆煙や音響にかかわらず、少しも効果がないといった感想を歩兵たちは持っていたのではないでしょうか。

 結果はわが軍の損害は死傷約7万人、参加全兵力の約28%にものぼります。ロシア軍は捕虜2万1000を含んで8万9000人でした。これも同じく29%でした。この激戦を制したのは機動力の発揮(ロシア軍を包囲した)と小銃・機関銃の射撃戦でしょう。

 戦争の全期間を通じると、小銃弾の射耗は9922万発という約1億発を数え、砲弾は99万2000発、約100万発です。ロシア軍の負傷者のうち約14%が砲弾によるものとされています。対してわが軍でロシア砲弾による負傷は8.5%だそうです。金子氏の『兵器と戦術の世界史』(中央公論新社・2013年、184ページ)が掲げる数字を出してみました。

 この数字で見る限り、わが砲兵はなかなかの戦果を挙げていますが、砲兵に対する不信感はぬぐえなかったと思います。

 次回は日露戦後の砲兵の様子です。

(つづく)

 荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。