陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(6)ー産業革命と火砲ー
□ご挨拶・テロの時代
分からなくなりましたね。今度は現職総理の遭難。もっとも爆発物の威力が小さく、時限装置も不正確だったか、幸いなことに大事には至りませんでした。犯人を取り押さえたのは地元の漁師さんだったとか。とっさの判断力は、やはり現場に生きる方だったというのが、どこか象徴的です。
それにしても、背後関係も不明です。またまた単独犯ですとなると、いよいよ要人警護も難しくなるでしょう。今回はお一人のSPの方が総理をかばいながら避難誘導をされたようでけっこうでした。ただ、映像を見る限りでは多数の警察官もいましたね。ただし、みなさん聴衆を見ないで、総理に注目しているような気がしました。
安倍元総理の時より改善されたかと思うと、最初に犯人に接近したのが民間人であったとは。なんとも、地方県警察の警備は大丈夫かと心配になります。おそらくいろいろな事情があるかと思いますが、社会の変化に対応しきれていないのではありませんか。
第8師団長はじめ多くの自衛官が亡くなったことが明らかになりました。任務中の殉職に心から哀悼を捧げます。
▼クリミア戦争は補給の戦いだった
軍事技術史では多くの変化が19世紀前半に起こりました。少し駆け足で進みます。まず、ロシアと仏英連合軍によるクリミア戦争です。この戦争は1853年から56年という長期戦でした。聖地エルサレムの管理権をトルコに要求してロシアは南下を計画します。それを阻止しようと英国などがクリミア半島に進出し、ロシアは敗れました。「クリム」というのが地域の呼び方です。ウクライナ南部にあたり黒海に突き出ています。
ロシアの陸軍は、ナポレオンの侵攻をはね返し、当時では世界最大の陸軍国であり、勝利を積み重ねてきました。中央アジアやコーカサス、ペルシャやトルコに勝ち、ポーランド人の、マジャール人の反乱を鎮圧し、常勝の軍隊として有名をはせています。それというのも、ナポレオン時代の兵器体系や運用を、みなで学んだ欧州軍隊の水準を守っていたからです。
これを打ち破ったのは英仏両軍のクリミア派遣軍の補給の成功でした。ロシア軍は火薬その他の必需物資をセヴァストポリ軍港、それを守る要塞に送らねばなりません。セヴァストポリはクリミア半島の先端にありました。制海権は英仏の海軍がおさえています。だから海上補給は不可能でした。
では陸上、要塞の背後からの輸送ではどうだったでしょうか。軍港の北には大きな草原が広がっていました。人家も道もまれな地域です。農民が使っている馬車を約12万5000輌も徴発して輸送部隊を編成したそうですが、今度は秣(まぐさ・馬糧)が不足します。当初、道路わきの草を馬たちに食わせていたようですが、それも食べつくすと、秣を馬車に載せなければなりません。そうなると、秣のおかげで補給物資が減ってしまうということになりました。
対して攻囲した英仏軍は豊富な補給を海上輸送で行ないました。戦闘の終盤頃には英仏軍は1日に5万2000発もの砲丸を撃ちだしたといいます。要塞内のロシア軍は弾薬の不足で反撃を制限するしかなかったようです。
この戦いは結局、補給に苦しんだロシアが要塞を放棄することで終わりました。ロシア黒海艦隊は安全な港を失います。コンスタンティノープルを北の海上からの脅威から守るという目的を英仏軍は達成したのです。
この戦争には多くの画期性がありました。連絡路を備えた長大な塹壕線、強固な野戦築城、大砲の一斉射撃による「弾幕射撃」などが始まります。第1次世界大戦(1914~18年)と比べてもほとんど原理が変わりません。なかったのは機関銃だけだったというのが定説になっています。
また、英仏連合軍の歩兵はライフル銃を初めて支給されました。前装滑腔のマスケット銃装備のロシア歩兵を圧倒したのです。新型ライフル銃の射程は約800メートルにもなり、マスケット銃はせいぜい約180メートルあまりでは比較にもなりません。この差は10年ほど後の第2次長州戦争(1865年)での徳川幕府軍と長州藩軍の違いと同じです。
この新型ライフルとはミニエー弾を使うものでした。
▼前装ライフルの革新
小火器の歴史で紹介したので施条銃身から撃たれる弾については簡単にお話します。この新しい弾はフランス軍のミニエー大尉が開発しました。1849年に特許をとったそれは、球形の弾丸ではなく、前がとがっていて後部は平らでした。直径は銃身の内径よりやや小さく、おかげで銃口からマスケット銃と同じようにストンと落とせました。
新しい工夫は弾の最後部にあったのです。窪みの縁(へり)の部分が装薬のガスで広げられ、それがライフルに食い込んで弾に回転を与えます。
それまでの滑腔(内部に施条されていない)銃の発射手順と比べると、弾の前後を間違えなければ良いといった修正ですみました。それまでの方法に対してちょっとした変更を加えればよいというのは、改良が許されやすい条件です。
クリミア戦争でこの小銃の素晴らしさを確かめたフランス軍は1857年に標準装備とします。プロイセン陸軍も1854~56年にかけてミニエー弾対応の小銃を採用。アメリカ陸軍も1855年には制式を変更しました。
ペリー艦隊が来航したとき(1853年)の幕府軍の装備は火縄銃でした。それが6年後には幕府は「舶来の武器」の自由買い取りを諸藩、旗本に許します。当時の言葉でいうゲベール銃が多く買いあげられました。発射のシステムが雷管式になります。火縄や燧石(火打石)発火と比べれば、不発率は激減しました。ただし、「円弾の口込めの鉄砲」といわれるように弾丸は球形で、銃身内部はツルツルでした。
岩堂憲人氏の「世界鉄砲史」によれば、ミニエー銃の有効射程は300メートル、つまり命中が期待できて加害能力が300メートルもあるということです。滑腔のゲベール銃と命中率で比べると300ヤード(約273メートル)で、ミニエー銃が55%、ゲベールは16%でしかありません。もっとも戦場での撃ちあいが想定される200ヤード(約182メートル)で、80%対41.5%となっています。
このミニエー弾ライフルを長州では1865年にすべての藩士に購入を命じました。これでは第2次長州戦争で「(長州兵は)4町から5町(436メートルから545メートル)か撃ってきてヒューンという擦過音(さっかおん)が聞こえる。当方のゲベールは撃っても届かない」という幕府軍現場からの報告があるのも当然です。
▼アメリカ式製造システムの導入
機械を造るための機械。この生産こそ、現在までもつながる技術力の差を見せつけるものです。ミニエー弾を造ることはできても、なかなか小銃を造ることはできませんでした。それも当然で、多くの小銃は手作業で造られました。職人たちはなかなか統制に服すことはありません。そこで考えられたのが当時、アメリカ式製造システムといわれた方法です。
1820年から50年にかけてマサチューセッツ州スプリングフィールドの兵器工廠とコネティカット川流域の小火器製造業者たちは新しいシステムを確立しました。端的にいえば、自動式あるいは半自動式のミーリング・マシン(フライス盤)を使って、同じ規格の小銃部品を大量に造り出すことでした。このような工作機械を使えば、どの小銃でも部品の交換が可能になりました。これまでのように最終工程で熟練職人が「すり合わせ」をする手間が省けるようになったのです。
もちろん、フライス盤はひどく高価でしたし、材料の無駄も大きくなりました。当時の機械ですから、不良品もたくさん出ました。しかし、大量生産にはとても向いていたのです。
また、同じ部品を造る機械の原理は、今でも身近にあります。スペアキーを作るためには原型にそった動きをする切削機が必要です。あれと同じで、コピーする原型の輪郭をなぞって、それと連動する刃物を用意します。あるいは、製図などで使うパンタグラフでも同じです。
アームストロング砲にたどり着く前にフライス盤の話になってしまいました。次回こそ、新しい砲身製造システムを実現したアームストロングのアイデアをご紹介します。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。