陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(7) アームストロング砲と後装システム

▼軍事技術より民間技術が上だった

 青銅よりも強い鋼(はがね)ができないか。これまでの、鋳鉄で一体化した砲身ではないものができないだろうか。そんなことを19世紀の半ばのヨーロッパの技術者たちは考えていました。そのさなかに、英国人ヘンリー・ベッセマーが新しい方法を発見します。

 1856年のことでした。それまで鋳鉄(ちゅうてつ)は「るつぼ法」によって作られていました。鉄は炭素を含むと溶融状態を維持できなくなります。高炉によって溶かされた鉄鉱石の湯、これを銑鉄(せんてつ)といいますが、その中に酸素を送り込みました。具体的には空気を吹き込む「転炉」を開発します。すると炭素や珪素(けいそ)などを酸化して除くことができました。これを「ベッセマー法」といい、翌年、英国で特許が認められます。

結果、製鉄業は錬鉄から熔鋼へと発展し、鋼の大量生産ができるようになりました。これによって多くの製造業者は鋼鉄製の大砲の開発に挑むようになったのです。

 そんな頃です。『戦争の世界史』には興味深いエピソードが書かれています。あるロンドンのクラブでアームストロングは語りました。そのときクリミア戦争のことを新聞で読んでいたアームストロングは「現在の技術工学で実施されているレベルまで、軍の技術工学を引きあげるべきだね」というと、すぐに後装施条砲の設計スケッチを描きました。

この頃、砲兵工廠では、これまでの青銅製砲身を守り続けていました。前装式の火砲だけを生産していたのです。もちろん、青銅はその製造の容易さや、安価なことで19世紀の末まで使われ続きます。

▼アームストロング砲の砲身

 アームストロングの発想は、これまでの鋳造による砲身製造とは異なっていました。大きな型の中に「中子」(砲身になる)を入れて、その周囲に湯(熔けた鉄)を流しこむのが鋳造です。砲腔になる中子の周りに少しずつ外側を組みたててゆくのです。砲身の内側の表面にあたる部分を鋼鉄で造り、その外側に可鍛鉄の帯を巻き付けていきました。この帯はのちにワイヤになってゆきます。

 もう1つの方法は、中子の周りに可鍛鉄の環を「スウェッティング」していきます。その環に熱を加えて膨張させて、その中に砲身を通しました。そうして環は冷却されると元の体積に縮まろうとするので、中の砲身をしっかりと包み込みます。そうすれば、内部で装薬の爆発が起きて砲身が外側にふくらもうとしても、環によってそれを押さえこまれることになりました。幕末に輸入されたアームストロング砲にはこの層が4つにもなっていたといわれています。

 このように軽量でありながら、強靭な砲身をアームストロングは造ることができました。しかも、これまでの鋳鉄ではできなかった大きさの砲身も造れるようになりました。一体化した型を必要としていた鋳鉄砲とは異なって、構成部品をいくつも用意してより大型の砲も造れるようになったのです。

 同じようにプロシャでも新しい努力がされていました。エッセンの製鋼業者、アルフレッド・クルップは失敗を乗り越えて1870~71年の普仏戦争で彼の造った大砲の価値を示します。

▼閉鎖機構のこと

 銃砲身の後ろが開いたので、それを塞(ふさ)ぐための装置が必要となりました。その装置を銃では遊底(ゆうてい)といい、砲では閉鎖機ということはすでに述べたと思います。この「遊」というのは、「あそぶ」という意味だけではなく、「ぶらぶらする」とか自由に動くという意味があります。昔の公園には「遊動円木(ゆうどう・えんぼく)」などという遊具がありました。

 砲では大きくなりますから閉鎖機となります。2種類に分かれます。1つは大きい螺旋(らせん)がついた円形の蓋で後部を塞ぎます。これを螺式(らしき)といいます。この「螺」も元は貝の名前で、「にし」、左巻きの巻貝をいいました。淡水産では「田螺(たにし)」、海には「栄螺(さざえ)」がいます。兵器などの用語では「螺子(らし)」、つまりネジのことをいいました。螺旋階段もそうです。昔の火縄銃も後端をネジにして止めました。

 もう1つを鎖栓式(させんしき)といい、砲身の後部を太くして、そこに四角の穴を開けて、それに相当する四角のブロックを出し入れします。そのブロックが上下動するものを垂直鎖栓式といい、水平に動くものを水平鎖栓式といいました。

 ついでに詳しくいうと、砲身の内部は砲腔(ほうこう)と閉鎖機室に分かれます。砲腔とは閉鎖機室の前端から砲口までの長さ、つまり内腔を言って、その長さを腔長といいます。さらに砲腔は薬室(やくしつ)とライフルが施された施綫部(しせんぶ)に分かれます。砲身長とは閉鎖機の後端から砲口の前端までの長さをいいます。この長さは加農では30~70口径、榴弾砲は10~30口径、臼砲は5~10口径でした。

▼アームストロング砲とのショウ・ダウン(対決)

 大量にアームストロング砲が初めて実戦で用いられたのは、なんとわが国が相手でした。1863(文久3)年5月9日のことです。前年に生麦村(現・横浜市鶴見区)で行列を乱した英国人を薩摩藩士が殺傷します。この翌年には英国のキューパー提督が率いる英国艦隊が鹿児島湾に侵入しました。薩摩側は賠償金の支払い、謝罪、犯人引き渡しも拒否。対して英国側は薩摩藩蒸気船3隻を捕獲します。

 これに対して薩摩軍は天保山砲台をはじめ、多くの沿岸砲が艦隊を砲撃しました。7隻の英国艦に搭載されていた砲数は合計で101門、うちアームストロング砲は24門でした。350発の砲弾が撃たれ、薩摩軍に大きな損害を与えました。

 翌々日の11日以降、長州藩は関門海峡を封鎖し、攘夷を決行します。5回にわたって外国船を砲撃しました。このとき英国は被害者ではなかったものの、翌1864(元治元)年8月4日、英米仏蘭の四カ国連合艦隊が下関を襲います。

 8隻の英国軍艦のアームストロング砲46門は700発の砲弾で下関の全砲台が壊滅させてしまいます。上陸した連合艦隊の陸戦隊にも抵抗できず、守備兵は撤退し、砲台の火砲が鹵獲された写真も有名です。

▼急いで買い込んだアームストロング砲

 初期のアームストロング砲には弱点がありました。それは鹿児島の戦争でも事故を起こしました。キューパー提督が寄せた報告書によれば、砲尾栓が壊れ、しばしばガス漏れを起こしたといいます。それはアームストロング自身も分かっていたようです。まだまだ構造上に問題があり、後装方式は大口径砲には使えず、装薬も増やすことは危険でした。1863年には英国海軍は後装砲を、前のような前装砲に取り換えてしまいます。

 しかし、比較的軽量な野戦砲では、まずまずの性能です。時計の針を少し戻します。1862年には徳川幕府は使節団を送り、団員たちは英国のウーリッジ造兵廠を見学しました。そこでは新しいアームストロング砲が生産されています。

1865年4月には長崎奉行を経由し、グラバー商会に35門のアームストロング砲と各種砲弾を発注しました。その2年前までは英国政府によって輸出を禁じられていましたから、なんとなかなかに早い注文でした。ところが、それは戊辰戦争には間に合わず、佐賀藩など倒幕勢力に装備そのものは先んじられてしまいます。

佐賀藩は1860年の清朝と英国の戦い、大沽(たあくう)砲台とアームストロング砲を載せた英国艦との砲撃戦の結果を知りました。その破壊力と射程、発射速度の高さに驚きます。そこで1861年にはロシアにアームストロング砲2門を発注しました。

 

 おそらく佐賀藩の製鋼能力ではとても完璧な模倣はできなかったでしょう。あったとしても鋼製砲身ではなく、鋳鉄製のそれだったかも知れません。

 明治3(1870)年でも、アームストロング砲を2門以上保有していたのは、鹿児島(薩摩)の2門、山口(長州)の4門、佐賀(肥前)の14門でしかありませんでした。

 次回はいよいよ戊辰戦争のフランス式4斤山野砲の活躍です。(つづく)

 

 

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。