陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(8) 幕末維新の時代の砲弾

▼ボンベンと高島秋帆

 歴史小説作家の津本陽氏といえば、ご自分でも居合や抜刀道などを研鑽してリアルな剣豪小説などを書かれています。その作品群の中に、『人斬り剣奥義』(1992年・新潮文庫)という短編集がありました。不思議な題名、「ボンベン小僧」という北海道へ流される政治犯たちの脱獄を描いた掌編があります。もちろん、ボンベンとは爆発力が大きい砲弾のことと書かれています。反政府活動で逮捕された男のあだなであるというのです。

 西南戦争の後のことですから、おそらくボンベンは戦場で使われたのでしょう。調べてみると、どうやらオランダ語のようです。そこで、オランダ流砲術が伝わった頃のことを書いた資料を集めてみました。

 その中に横浜薬科大学教授梶輝行氏の「高島流砲術の形成過程における長崎オランダ通詞の役割と貢献」という論文が勉強になりました。これからの多くの記述は、そこから学べました。

▼高島秋帆(たかしま・しゅうはん)の徳丸ヶ原(とくまるがはら)

 東京都の北端、板橋区の中を走りぬける都営地下鉄三田線の駅に「高島平(たかしまだいら)」という駅があります。板橋区の名の起こりは五街道の1つ、中山道の宿場町の下板橋から採られました。(下)板橋の宿は江戸からみれば中山道の宿駅の最初になります。もう1つの街道が板橋区には走っていました。川越街道です。上板橋宿といわれる宿場もありました。

埼玉県の川越市は譜代大名の城下であり、今でも「小江戸(こえど)」といわれる蔵造りの商店が残る有名な町です。「くりよりうまい十三里半」ともうたわれて、サツマイモの名産地でもありました。ふかしたり、焼いたりした芋が「九里四里(13里)うまい」というのです。「栗より美味い」にかけて道のりが江戸から13里半(およそ55キロメートル)という意味になります。

徳丸ヶ原(とくまるがはら)は、どちらも江戸から北上する2つの街道の中間にあります。新河岸川をはさんで埼玉県と向かい合っています。荒川の氾濫原でもあり、幕府のあった時代には将軍家の遊猟地でした。

ここで長崎の町役人高島秋帆(1798~1866年)が幕府の要人たちの前で「西洋式火術」を見せたのが1841(天保14)年5月9日のことでした。場所は赤塚村(東武東上線には「下赤塚」という駅があります)の中心から北へ1キロメートルあまり、今も記念碑が立っています。

このことを記した資料には秋帆が129人を2個中隊に編成し、20ポンド・モルチールとホウイッスル砲2門を据え付けた、また、野戦砲3門に砲員、人夫を用意したといわれます。

16ポンド・モルチール砲からはボンベン弾、ブランドコーゲルが撃たれた、同じく16ポンド・ホウイッスル砲からはガラナータ弾、ドロイフコーゲル弾を発射とあります。そしてゲベールの備え撃ち、着剣ゲベールによる突撃も行なわれたといいます。

このゲベールは1777年にオランダが制式とした前装燧石銃だったといわれています。本来、ゲベールとは小銃をいうオランダ語でした。銃尾の塞ぎ方は、つまり閉鎖機構はネジです。撃った火薬のカスが溜まると、これを外して水洗いできました。銃身と銃床とは、上中下の3ヵ所が環帯(かんたい)で固定されているので、「3つバンド」とも呼ばれていました。もちろん、弾丸は球形の鉛製です。

高島平といわれるようになったのは、この高島秋帆による西洋砲術の展示があったからです。

▼幕末のボンベン

 『陸軍創設史-フランス軍事顧問団の影』(1983年、リブロポート)を書かれた篠原宏氏によれば、秋帆が西洋砲術に興味をもったいきさつについて『日本兵制沿革史』(1879年・陸軍文庫)に書かれているそうです。さっそく調べてみると、オランダ人ニーマンが江戸への旅の途中で大坂城を見て「ボンベン」という言葉を使い、その意味を秋帆が尋ねています。すると、ニーマンは国家機密ではあるがと前置きして次のように語りました。

ボンベンとは「モルチール」という短砲(砲身が短い臼砲)、あるいは「ボムカノン」という砲で、城堡(じょうほ)を撃つ、その猛烈な力をもつ砲弾のことだとニーマンが言いました。それは凄いことだと秋帆は感心します。のちにオランダ商館長であったデブレーに師事して詳しく教えを受けました。私費で火砲や小銃、馬具、甲冑などのさまざまな兵器を買い入れたのもそのためだとありました。

ボンベンとはモルチールすなわち臼砲から撃ちだされる炸裂する大型榴弾のことです。また、ボムカノンは「爆弾カノン」ともいわれた大口径の加農だったようでした。またホーイッスルとは英語のハウイッツアー、榴弾砲のことでしょう。ブランドコーゲルは焼夷弾(おそらくは初期の、炎を噴き出すカーカス弾)、ガラナードは「箱弾」とありますがこれが当時の言葉で柘榴弾、のちの榴弾、ドロイフコーゲルは葡萄弾とあるので、のちの霰弾ではないでしょうか。

▼柘榴弾の造り方

 まず成形ですが、半球形の弾体を鋳造します。中には砂と小片にした木炭を入れて粘土の型のなかに鋳鉄を流し込んだようです。できあがった2つを合体させて接合しました。炸薬に火をつける迅速火縄(じんそく・ひなわ)を入れるのは木製の導火管です。これを挿入する穴が弾体にはあらかじめ開けてあります。

 迅速火縄というのは、ふつうに考えると火縄は実にゆっくり燃えるものですが、それでは飛ぶ砲弾のスピードに対応できないので工夫されたものなのでしょう。秋帆の書いた教科書には、綿製で口薬の粉末とブランデーのようなものに浸すとあります。

 内部の火薬の量は、50ポンドの砲弾には4ポンド、16ポンド砲弾には0.5ポンドとあります。また、24ポンドの柘榴弾には18ポンドの鉛を入れるそうです。

 半球体を合体させるので完全な球形とはいえず、弾道が安定しないことは明らかでしょう。だから、射程は当然短くもなるわけです。

 今も残る絵図などを見ると、ねらった的は4町(約440メートル)先と書かれてもいます。とはいえ、ふつうの小銃が100メートルくらいの距離で弾幕を張るのがやっとというならこの榴弾も恐ろしい威力をもったことでしょう。また、「台付野戦砲」という砲車が3門見えます。フランスではすでに規格化された野砲がふつうにあったので、オランダ製のこの野砲も前装の主力野砲だったのです。

▼幕府の兵制改革とナポレオン砲

 ペリー艦隊の来航は大きな衝撃でした。風にたよらない外輪の回転で前後左右に動き、黒煙を吐き出し、黒光りする艦砲を見せつけられて幕府も雄藩も危機意識をもちました。来航したのは1853年7月8日(わが国では嘉永6年6月3日)のことです。幕府はただちに佐賀藩に大砲の鋳造を命じます。佐賀鍋島家は長崎防衛の任にあたることから大砲の開発に熱心でした。

 幕府は8月には高島秋帆の監禁を取りやめ、伊豆韮山代官江川太郎左衛門の部下とし、ひろく兵学を教授させます。ただちに湯島(現・東京都文京区)に鉄砲製造所を設けました。9月には諸藩に大船建造を許します。10月にはオランダに蒸気動力の軍艦を発注、さらに銃剣付きの小銃も買うことにしました。

 湯島には大きな水流がありません。水力を使う必要から1864年には湯島から関口(文京区)に鉄砲製作所は移転します。勝海舟の「陸軍歴史」によると、フランス式4ポンド山砲、同施条砲、同45ポンド施条カノン(28門)、軍艦千代田形備砲30ポンド長カノン、フランス式ボートホゥイッスル砲、青銅30ポンド16サンチ施条砲、フランス12ポンド施条砲(50門)、オランダ30ポンド施条砲(6門)、同ナポレオン12ポンド施条砲(50門)などが造られたそうです。

 興味深いのはオランダ式とフランス式が混ざり、だんだんとフランス式が有力になってきていることでしょう。じっさい、蘭式か仏式か議論があったようです。幕府砲兵頭武田斐三郎(たけだ・あやさぶろう)はフランスの12ポンド施条砲がオランダの12ポンド砲と比べると軽く、便利なのでフランス式にすべきと報告しています。

 なお、武田は1827年に伊予大洲藩士の家に生まれ、大阪の緒方洪庵の適塾で学び、佐久間象山の兵学塾で砲術、築城、航海術を修め、幕臣に登用されます。武田成章(なりあき)で有名で、函館五稜郭の設計者としても有名です。1871年には明治政府に出仕し、陸軍大佐となりますが1880年に亡くなります。

 この武田の指導のもとで、ナポレオン3世が贈ってくれた前装施条野砲が国産化もされて幕府陸軍の標準装備となりました。(つづく)

 

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。