陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(20) 28珊榴弾砲の実像

□はじめに

 28珊榴弾砲といえば、わが国で最も多く生産された要塞砲です。その雄姿はいまも画像に残り、あるいは戦争映画でも見ることができます。弾丸重量は217キログラムもあり、砲床の上で回転し、360度の射界を誇りました。いまの陸自の代表的火砲、FH70の155ミリ砲弾が約40キログラムの重量と比べても巨大さが分かります。

最大射程も7800メートル、昭和の時代になると特殊重砲運搬車に分解して載せ、13トン牽引車が時速10キロで運ぶこともできるようになります。
 

 1914(大正3)年の第1次世界大戦のドイツ軍チンタオ(青島)要塞の攻撃にも参加して敵陣をゆるがせたといいます。今日は、その戦場への参加について、また、有名な旅順港への砲撃などをご紹介します。

▼攻城砲兵の要塞攻撃

 いったい誰が、設置に50日もかかる要塞砲を野戦に送れといったのでしょうか。これこそ諸説あります。まず、佐山二郎氏の『日露戦争の兵器』(光人社、2005年)には、旅順要塞攻略のために「陸軍技術審査部」が攻城重砲の非力さを考え、1904(明治37)年5月10日、陸軍省山口勝(砲兵大佐)砲兵課長に28糎榴弾砲を現地に送ったらどうかという意見を具申したといいます。

 ところが、その具申は参謀本部の担当者と第3軍攻城砲兵司令官豊島陽蔵少将には同意されません。まず運搬の苦労です。いくら分解しても、全体ではおよそ16トンの巨砲でした。また、設置についても、深く、大きなピット(穴)を掘り、基部の完成まで苦労と時間がかかります。そして、何よりロシア堡塁の防御力についても甘く見ていたからだろうと佐山氏は言われています。

 開戦前の1903年には、外国製の攻城砲としてはクルップ社の10珊半(105ミリ)加農が4門、同じくクルップ(克式)15珊榴弾砲が18門、同12珊榴弾砲が32門あるだけでした。他にも当時には旧式になったグリッロ少佐が設計した加農や臼砲が多数ありましたが、いずれも青銅製で射程も短く、近代要塞の攻撃には威力不足というものです。

 では、乃木第3軍による旅順要塞攻撃はどうだったのでしょうか。日露戦史の第1人者である長南政義氏の論考があります。これまでの司馬遼太郎氏による『坂の上の雲』で描かれたような第3軍司令部の判断ミスや準備不足というような定説を見事にくつがえしました。

 まず、わたしもそれまで不思議だったのは、定説では乃木軍を無能といい、肉弾主義と非難しています。でも、それは攻撃方法の有効性、さまざまな攻略法の可能性を少しも考慮しないものだからです。

たしかに8月19日の第1回総攻撃は死傷約1万6000人という悲惨な結果を招きました。しかし、それは当時の軍事的合理性からみても、他にやりようのない攻撃をした結果です。

 第3軍幕僚が計画し、乃木軍司令官が裁可した攻撃は東北正面を攻めることでした。砲兵によって事前砲撃を行なう。準備射撃を十分に行って、続いて歩兵が突撃して要塞を奪取する。これはいわゆる強襲法というものでした。西欧の軍隊でも当然行なう方法です。どのような軍隊でも当時はこれこそが王道でした。現に、集められた火砲は380門、撃たれた弾は約11万3600発、1門あたり300発にもあたります。

 それでもロシア軍の堡塁はびくともしませんでした。歩兵の突撃を掩護する機関銃も投入されました。これは、ロシアの防諜が優れ、ほとんど堡塁の実態が分かっていなかったことによります。鉄筋が入ったコンクリートなどの防禦能力など、当時の世界各国でも実はほとんど分かっていなかったのではないでしょうか。

また攻撃方向としては203高地(旅順港内を俯瞰できる)を含む西北方面を採るべきだったという批判もあります。そうすれば、早くに旅順艦隊を無力化できたというのです。

 しかし、第3軍の任務はとにかく要塞を陥落させることであり、そのためには東北にある望台の高地を占領することが何より大事でした。長南氏が指摘するように、守将だったステッセル中将が降服開城を決意したのも望台を奪われたからでした。

 また、わたしも長南氏と同じように、当時は肉弾主義などなかったと思っています。あのベトン(コンクリート)で覆われ、鉄条網やさまざまな防衛手段で強化された近代要塞を限られた時間で攻略するには優勢な火力しかなかったのです。そうして、最後は白兵による強襲以外には考えられません。

 攻城砲兵隊は、31年式速射野・山砲を装備した砲兵聯隊とともに要塞に砲火を浴びせました。ただ、それはいたずらに土砂を噴き上げ、ベトンの堡塁にはね返されるだけでした。わずかに15糎榴弾砲だけが効果があったようです。

▼巨砲を旅順へ

 第1回の強襲の失敗から、今度は長大な塹壕をこちらも掘って敵堡塁に接近していく正攻法を採るかどうかと議論がわきました。それにしても要塞攻略には重砲火力が不可欠です。大本営は8月下旬には内地の要塞砲だった28珊榴弾砲を投入することにしました。

これまでの定説では、参謀次長だった長岡外史少将と技術審査部長有坂成章が提言したとされています。しかし、長南氏は一次資料を検討した結果、陸相寺内正毅と陸軍次官石本新六が考えついたのではないかということを書かれています(『児玉源太郎』作品社、2019年)。

 8月29日には、朝鮮鎮海湾に配備するようになっていた6門の28珊榴弾砲を少しでも早く旅順に送るようにします。

▼撃ち返された砲弾

 同砲の砲弾には弾底に信管がついていました。対艦射撃をするので、まず弾頭が敵艦の装甲帯や甲板を撃ち破り、わずかの差で信管が作動します。そのため信管には起爆する延期装置をつけていました。その装置を取り外して大陸の戦場に送りだします。

 28珊榴弾砲部隊は次々と巨弾をロシア軍に向けて放ちました。しかし、ロシア軍も同じように殺到する日本兵や陣地に砲弾を送りこんできます。そのことについて、偕行社編の『砲兵沿革史』に奈良武次砲兵少佐の回顧談がありました。

 奈良武次(なら・たけじ)は1868(明治元)年、栃木県出身で1886(明治19)年に陸軍士官学校入校、旧制の士官生徒11期生でした。要塞砲兵として育ち、日清戦争では徒歩砲兵大隊に属して出征、軍務局砲兵課、同軍事課勤務、ドイツ駐在、鳴門要塞司令官などを歴任し、日露戦争では攻城砲兵司令部員でした。

 開城後、つまりステッセル将軍以下降伏後、要塞受領委員長豊島少将の随員としてロシア側の引渡委員長ベイリー少将の官舎に出かけたときの回想です。要約します。

 部屋の書棚に、28珊榴弾の信管を縦に割って構造が見えるようにしたものがあった。ベイリー少将が言うには、日本の不発弾があまりに多いから、このように信管を裁断して研究した。それを直して黄金山にあった海岸砲、クルップ式28珊榴弾砲で日本側に撃ち返したが不発はなかった。この話を聞いて、奈良少佐はある疑問が氷解したそうです。

 あるとき、敵の大口径砲弾がわが榴弾砲の砲床に命中した。検分すると、今後の射撃に困ることはないと判断したが、ふと見ると、敵弾の弾底が砲床のそばに落ちていた。手にとってみると大阪砲兵工廠の文字が刻まれている。いつの間にか、わが砲弾がロシア軍のもとにあるという事実である。この疑問が解けたのです。

 ロシアのクルップ28珊砲とわが28珊砲の砲身内部の施条(ライフリング)は逆さまでした。右回りが日本製、ドイツ・クルップは左回り、口径は同じで十分に撃つことができました。むしろ弾帯の緊縛度は増したそうです。黄金山砲台を訪れた奈良少佐は、そこに整然と並べられた日本製砲弾を見てひどく驚いたそうです。

 では次回はさらに知られている旅順港内のロシア軍艦の被害について秘話をお届けします。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。