陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(46)世界大戦後の反省

□総力戦研究の時代

 世界大戦(当時は次の戦争も予想できませんでした、だから第1次とか第2次という言い方はありませんでした)が軍事世界に及ぼした影響は大きなものでした。

日本陸軍は、あまりに大規模な戦争、新兵器の登場、エポックメイキングな事態の数々にひどく驚きました。戦争の実態は派遣された将校たちによって調べられ、報告されます。これまでのように最前線の軍隊だけが戦争をするのではない、国民すべてが戦争に貢献したのが今次の大戦なのだと思い知りました。そうして未来の戦争についての予想を立て、それに備える軍備を考えるのが当然でした。

日本陸軍がどのように教訓を生かしたかは次回以降。まずは西部戦線の独仏英の各国陸軍の考え方です。

 

▼フランス軍の防禦優先

 フランス陸軍では、やはり将来も陣地戦だろうという人たちと、機動戦を重視する人たちが対立します。強力な火砲の出現、機関銃火による濃密な防禦、障害物構築技術の進歩、もう巨大な壁を突破などできないと主張する人たちと、防禦は万全ではない、装備と運用で機動すれば弱点を超えることはできるはずだと考える人たちの主張が戦われました。

 フランス軍の以後を支配したのは前者でした。重厚な防禦を大切にする勢力が力を持ったのです。国境要塞に弱点をつくらず、互いに連携した重厚な要塞ラインを建設します。そうしてドイツ軍の攻勢を支え、戦線を固定できるとしました。

自分たちの苦い経験をそのまま学びに生かしたのでしょう。ソンム会戦でもエーヌでも大量の火砲を用意し、歩兵の掩護に戦車まで投入したのに失敗しました。しかも有効だった毒ガスの使用も戦後には禁止されます。

そうして建設されたのがマジノ・ラインです。独仏国境に大規模な要塞群が建設されました。ただし、この防衛戦構築には大きな欠陥がありました。ベルギーとの国境線は、ひどく脆弱で、まるで開けっぱなしの状況でした。

▼戦車は歩兵随伴

 フランス軍は戦車の恐怖を知りませんでした。突然現われた戦車に驚かされたのはドイツ軍です。英国製の世界初めての戦車の出現に恐怖し、潰走したのはドイツ軍でした。反対に、フランス軍の高級将校たちは戦車が故障を起こしては落伍し、ドイツ軍火砲によって炎上させられているのを見たのです。高級将校ほど、機動兵団としての戦車部隊の運用には関心をもちませんでした。もちろん、戦車の可能性について考えるドゴールやエスチェンヌといった若い将校たちはおりましたが、ごく例外的な少数派だったといいます。

 戦車は歩兵に随伴すべき機械にしか過ぎない、機械化兵団は対戦車砲と地雷によって進撃を止められ、側面攻撃を受けて弱点をさらすだろう・・・といった意見が1930年代まで主流でした。歩兵の突撃に呼応して敵の機関銃陣地を潰す、機関銃弾や小銃弾に耐えられる装甲さえあればいい、このようにフランス軍戦車は考えられました。

 英国軍も似たような論議があり、やはり歩兵随伴の動く砲塔としか評価されませんでした。もちろん、有名なフラーのように、これからの戦車は機動力で集中運用するのが軍隊の進歩だと主張する人もいました。これもごく少数派です。しかし、そのくせ英仏軍ともに有効な対戦車砲の開発をおろそかにしてしまいました。戦車は歩兵の随伴機械だと思ってしまったのです。対戦車砲は機動力がそこそこあって歩兵が受け持つものとされました。

▼ドイツ軍は違った

 予想もしていなかった「動く鉄の怪物」、戦車の登場によってパニックに陥ったドイツ軍の反省は違っていました。負けたからこそ学べたのでしょう。ドイツは元々戦争資源の貧弱なことから速戦即決を企画していました。それが機甲部隊の集中、独立運用の可能性を研究しています。

 戦線が固定すれば組織的な火力が効果を発揮する。その代わり機甲兵団を集中すれば、戦場を流動的な状況に保ち続けられる。そこで戦闘の決を手にしようとしたのです。これがドイツ軍の常識となりました。金子氏は同じ事象を連合軍もドイツ軍も観ているのに、この違いが大切だと指摘されています。

 1934にヒトラーが政権を取り、35年には再軍備宣言をすると再軍備の中心に戦車集中使用論を置きました。それによって新生ドイツ軍は機甲戦力の充実化が進みます。この年にはなんと3個の戦車師団をもちました。

 ただし、このドイツ軍の弱点は機甲部隊への火力支援の貧しさでした。間接照準を中心にした牽引火砲では高速で移動する機械化装甲部隊への効果的な支援は難しかったのです。そこで自走砲が開発されますが、戦車の整備が優先され自走砲の登場は遅れます。見える的を射撃する直接照準の戦車砲だけでは不十分です。そこを解決するためにドイツ空軍の急降下爆撃機が用意されました。有名なスツーカです。

 次回はそうした海外情勢がわが国砲兵や戦車の登場の背景を調べましょう。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。