陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(47)世界大戦後の火砲の進歩
□はじめに
火砲はより大型化します。射程の増大をねらったのです。大型化と同時に自動車牽引も考えられますが、10センチ榴弾砲以下の師団野砲では輓馬牽引が依然として主流でした。その重量は前車(弾薬車)も含んで最大2トンというところです。とりわけ75ミリの野砲は、いざとなったら人力でも移動できるということから、歩兵への直接支援火砲として必須のものとされていました。
▼フランス軍砲兵
フランス軍は戦後、歩兵師団の中に75ミリ級の1個野砲聯隊と15センチ榴弾砲主体の1個重砲兵聯隊をもっていました。そして約1300輌の戦車を90個の歩兵師団に分属させます。歩兵への随伴と、対戦車戦闘にも使えるように考えていました。また、予備火砲も大量に抱えています。75ミリ級は5300門にもなったようです。
対戦車砲は口径25ミリで6000門にもなりましたが、第2次大戦直前にはこれを口径45ミリに改編しようと1280門も用意しました。
▼英国軍砲兵
1937年より後、師団砲兵の主力は75ミリ(17ポンド)砲から88ミリ(25ポンド)砲に増強します。この88ミリ野砲大隊3個と中砲大隊1個を師団砲兵としました。この88ミリ砲は重量が1.74トン、最大射程は1万2250メートル、弾重は11.3キログラムというものです。この野砲は自動車牽引でした。
対戦車砲は40ミリ(2ポンド)対戦車砲を大隊編制で砲兵に加えました。88ミリ野砲も徹甲弾を使い、対戦車砲として活躍します。
▼アメリカ軍砲兵
歩兵師団には75ミリ野砲連隊と15センチ榴弾砲連隊(15H)を編制内にもちました。しかし、続いた改編で75ミリ野砲は10センチ榴弾砲(10H)に替えられ、10H大隊3個と15H1個大隊の強力な砲兵連隊になります。
▼ソ連軍砲兵
師団砲兵は76ミリ野砲、122ミリ榴弾砲が主体で、152ミリ榴弾砲も装備されていました。列国の中でも火砲の数も多い国柄ですが、対戦車砲としては76ミリ野砲が有効であることを、のちの戦場で有効であることが分かります。制式の対戦車砲は37ミリでしたが、強力なドイツ軍戦車には有効ではありませんでした。
▼ドイツ軍砲兵
ナチスによる再軍備も戦車や装甲車輌の整備が優先され、火砲はどうしても後回しになりました。それでも歩兵師団の砲兵連隊には10Hと15Hを主力とするなど火力増強には努めます。ただし、ドイツ軍の特徴として歩兵の連隊砲として15Hという大型砲を2門も配属したことです。
対戦車砲は37ミリでしたが、歩兵連隊には12門、師団直轄で27門がありました。大きく名を挙げたのは88ミリ高射砲です。スペイン内戦で実戦に参加し、高射砲としてだけではなく、対戦車砲としても直射火力としても有効であることが分かりました。
▼わが日本砲兵
わが15センチ榴弾砲も同加農も口径は149ミリでした。ジュウゴリュウ、ジュウゴカといいながら実際は150ミリありません。それは明治16(1883)年にイタリアから招聘したポンペオ・グリッロ少佐の影響でした。イタリア陸軍の口径が149ミリであったからです。フランス軍は155ミリでした。これに倣ったアメリカ軍も155ミリ、英国は6インチ、すなわち152ミリです。ロシアも英国式で152ミリになります。ドイツ軍はちょうど150ミリでした。
わが国は日露戦争以来、ドイツ・クルップ社製の38式野砲を装備してきました。日露戦後の不況、そうして砲兵への不満から低迷していた陸軍もようやく90式野砲(ただし昭和7年5月制定)を新造します。それはフランスのシュナイダー社製を参考にし、開脚式でスマートな姿をもち、砲身は自緊法を採用したものでした。
砲口部には制退器を着けました。発射時に火薬ガスの圧力を使って砲架に対する反動を減らすものです。また駐退復座機も、これまでのバネを主力とすることから空気式としました。そうして開脚式、つまり車輪と脚2つ、つまり4点支持とします。これまでの単脚だと車輪と駐鋤の3点でした。これは射角も制限され、方向転換も不便です。移動するときは開脚を閉じて容易に動かせます。
砲身の全長は38口径で2883ミリ、重量が387キログラムです。高低射界はマイナス8度から43度まで、最大射程は1万3890メートル。初速は683メートル毎秒。弾薬筒重量は尖鋭弾で9.19キログラムです。ところが問題となったのは放列砲車重量でした。1400キログラムもあったのです。38式野砲が947キログラムであったのに、約50%も増えました。
これが大きな問題になってしまいます。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。