陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(25)日清戦争・砲兵の戦い(1)
□はじめに
今年はとにかく猛暑です。しかも台風の影響、線状降水帯といった自然災害がありました。各地で大雨を降らせ、あるいはゲリラ雷雨といわれるような豪雨があります。それなのに、わたしの知る限り新潟県は水不足のようでした。コメどころである新潟県、魚沼郡などは田んぼに水がありません。いわゆる旱魃(かんばつ)、干害といわれる状態であるようです。心も痛みますし、気候全体がどこかおかしいような気がします。
また、いわゆる原発処理水を「核汚染水」と言い換えて、わが国をおとしめようとする国々があります。自分たちはわが国のそれよりも、はるかに高い濃度の処理水を海中に放水しているのに、それをすっかり頬かむりして非難しています。マスコミのいい加減さはどこの国も同じだということがよく理解できます。
韓国の知人に聞いたら、自国の処理水のことなどほとんど知らない、韓国マスコミが報道するようにニッポンは恥を知らない国だ、人類全体の敵だというように信じていました。中国では塩が買い占め騒ぎになったといいます。自国の塩の生産割合、どれほどが海水から精製されているかも知らない人がほとんどです。
それこそが国家が生み出した国民のレベルと言えるのでしょう。わが国では、将来の見通し、具体的な計画も言わないでひたすら原発反対をいう人もいます。中にはマスコミ報道によれば、漁民の心を知れ、処理水の放流はやめろとデモをする市民もいるそうです。それでも身の危険を感じなくて済む・・・まさに民主国家ですね。
▼砲兵隊奮戦
日清戦争の推移や戦闘の様子は専門書を読んでいただき、わたしは戦闘ごとに使われた弾種や砲数、それに小銃弾をまとめてみます。資料によっては明らかではないものがありますが、戦闘の様子の一部でも想像できないかと思っています。
1894(明治27)年7月28日、大島旅団長は「成歓」に清国軍主力がいると判断しました。29日の払暁前に作戦を開始することにします。
軍隊区分は、右翼隊歩兵第21聯隊の一部を主力に、工兵1個中隊、騎兵5騎、左翼隊は歩兵第11聯隊を主力に騎兵5騎を、砲兵団として砲兵第5聯隊1個大隊と歩兵1個中隊、予備隊は歩兵1個大隊の半数、独立騎兵は1個中隊というものです。
8月3日には清国軍は潰走し、大島旅団は成歓を確保します。戦闘に参加した旅団の歩兵兵力は4個大隊(約3000)、騎兵(47騎)、砲兵(8門)、工兵各1個中隊です。死傷数は将校以下82名、清軍の死傷は500ほどと推計されています。消費した砲弾は榴弾・榴霰弾合わせて254発(1門あたり30発ほど)、小銃弾は6万7801発でした。
この成歓の戦闘が日清両軍の初めての衝突になりました。陸戦との関係では意外と知られていないのが、7月25日に起きた「高陞号(こうしょうごう)撃沈事件」です。高陞の船籍は英国でした。清国政府にチャーターされ、大沽で陸兵・兵器・弾薬を積み成歓に近い牙山に運航中だったのです。
護衛の軍艦には見放されて、わが浪速(なにわ・艦長東郷平八郎大佐)に追跡され、降服を勧告されましたが乗船する清国兵はこれを拒否します。やむを得ず、東郷大佐はこれを撃沈しました。約1000名の陸兵、火砲13門が海の藻屑となります。もし、この精鋭の陸兵1200と火砲が成歓の戦闘に加わっていたら、戦闘の帰趨がどうなっていたかは分からないという意見もあります。
▼平壌に集中する清国軍
清国北洋大臣李鴻章(り・こうしょう)は7月中旬に作戦計画を立てました。直隷と満洲から平壌付近に集中する兵力は総員1万5400、山砲28門、野砲4門、機関砲6門でした。
9月15日から始まったのが平壌総攻撃です。ここでは囲壁の頑丈さに困りました。砲兵は榴弾射撃を行ないますが、あまり効果があがりません。小銃の射撃戦が多かったことが分かります。
わが兵力の合計は人員約1万2000、山砲44門でした。わが死者は180名、負傷者506名、生死不明12名、消費した弾薬は榴弾680発、榴霰弾2128発、霰弾16発、小銃弾は28万4869発と記録されています。清国軍の戦死者は約2000名、捕虜は負傷者127名を含めて約600名でした。榴弾は城壁を射撃したものでしょう。また、霰弾は近距離の歩兵に撃ったものでしょうか。
▼要害九連城
第1軍(軍司令官山縣有朋)は第3師団長(桂太郎中将)に鴨緑江の渡河などを命じます。10月24日午前11時10分には歩兵中隊が川に入りました。深さは腰のあたり、流れも急であり、3人1組で肩を寄せ、手を組んで渡ったと記録があります。11時30分頃、清軍から猛射を浴びますが、掩護の砲兵小隊はただちに反撃し、この敵を追い払いました。
九連城を守備する清国軍は1万9750名と砲が81門という有力な敵でした。これに対してわが軍は歩兵1万3000名、騎兵350騎、砲78門という兵力で立ち向かいました。わが死者は34名、負傷者115名、榴霰弾も含めて493発(榴弾は不明)、小銃弾が9万5730発でした。
▼第2軍の戦い
9月25日、大本営は第2軍司令官に大山巌大将を任じ、戦闘序列を下します。戦闘序列というのは、戦時に勅命によって決められる作戦軍の編組(へんそ)です。複数の軍隊を組み合わせるもののうち軍令で定めたものが編組になります。その一時的なものが軍隊区分といい指揮関係はありますが隷属する関係はありません。
これに対して戦闘序列は隷属関係ができました。大山大将には2人の師団長、1人の混成旅団長以下の指揮監督権が与えられたことになります。第2軍は第1師団(山地元治中将)、第2師団(佐久間左馬太中将)、混成第12旅団(長谷川好道少将)を隷下としました。野戦砲兵2個聯隊、野戦砲兵第6聯隊の1個大隊が砲兵戦力です。また、臨時徒歩砲兵聯隊が置かれました。
「徒歩砲兵」の意味は、その編制の中に砲を牽引する輓馬がないことです。第1大隊は12珊加農と9珊同、15珊臼砲で編成され、第2大隊は9珊加農、15珊臼砲、9珊同を装備しました。馬がいないので移動には鉄道や軍夫の力に頼りました。
▼金州城の攻略
金州城には高い城壁がありました。高さ6メートルで、上部の幅は4メートル、それが東西600メートル、南北760メートルの長方形になっています。4つの面の中央には城門がありました。外濠もあって、壁から約10メートルの位置でした。ただし水深は浅く、歩兵が渡ることができました。清軍は城壁上に十数門の砲を置いています。
11月5日午後9時のことでした。山地第1師団長は命令を下します。師団は翌日、前面の敵を攻撃することです。隷下の歩兵第1旅団長は乃木希典少将でした。歩兵第2旅団長は西寛二郎少将、歩兵第2聯隊、歩兵第3聯隊が指揮されました。
続いて旅順の攻撃がされますが、次回はその様子をまとめてみます。 (つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。