陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(71) 自衛隊砲兵史(17) 1つの可能性の物語

□ご挨拶

 暦では「大暑」だそうです。暑いわけですね。沖縄県は台風の接近で史上空前の猛暑とかテレビで言っていました。昨日は陸上自衛隊富士駐屯地の70周年記念行事でした。時たまに太陽が雲に隠れると、すうっと涼しい風を感じます。やはり標高が高いせいでしょう。

 その代わり、陽がさせば容赦なく暑さが襲います。襲ってくるのはそれだけではありません。来賓の祝辞、激励、お言葉です。国際情勢を説き、安全保障環境の厳しさを語り、訓練に怠りなくと訓戒し、たいてい最後は災害派遣云々です。いずれも大切なことですが、武装し、襟に職種のマフラーを巻き、「気をつけ」と「休め」を繰り返す隊員たち、なんとも気の毒な思いに耐えません。

 体調を崩す隊員も散見され、それでも「暑いから、これだけにします。おめでとう、そして毎日ご苦労さん。終わり」という人が1人もいない。まあ、しゃべり、名を売るのが商売の政治家ですから、話をさせろと部隊や学校に要求するのも仕方ありません。

でも、処遇改善を約束する人はいましたが(民主党政権時代は自衛官の社会的立場を上げると同じ舞台で発言され、今は自民党です)、新しい戦い方や技術、あるいは領域横断戦に言及する人は誰もおりません。危機感がないのでしょう。あるいは隣の大国から手が回っているのか。あるいは、そんなこと語っても、レベルが低い我々には分からないと思っているのか。

最後のとどめは、またも災害派遣への言及でした。しっかりやってくれというべき相手は、その担当者である地方自治体であるのに。

▼可能性としての物語──道北戦争

 元自衛官・木元寛明氏の著作に『道北戦争1979』という作品があります。氏は1968(昭和43)年に防衛大学校を第12期生として卒業され、戦車指揮官を歴任され、2000(平成12)年に退官され、2008(平成20)年からは著述に専心されています。この作品は、陸自の青年士官たちとその部下たちの物語です。

 物語は1979(昭和54)年の夏、オホーツク海沿岸に始まります。

 

7月4日、午前4時、ソ連の原子力潜水艦から撃ち出された巡航ミサイルは、道内の空自レーダー・サイト(稚内、当別、奥尻、網走、根室)と千歳基地を襲いました。一瞬のうちに北海道の制空権はソ連空軍のものとなります。
 

 同時に、稚内正面にはソ連海軍の巡洋艦、駆逐艦などが現われて、声間海岸と抜海海岸に艦砲射撃が行なわれました。

 道北の防衛担任は旭川に司令部を置く第2師団です。名寄の第3普通科連隊、遠軽の第25普通科連隊、旭川に第9普通科連隊、同第2特科連隊、上富良野の第2戦車大隊などが基幹部隊になります。第一線兵団として新鋭装備がすぐに交付され、隊員の充足率もきわめて高く、士気も旺盛でした。

 この年の春、沿海州やサハリンの各港に多くの艦船が集結しているという情報が入ります。九州の資産家などというふれ込みで枝幸(えさし)の漁協関係者、港湾関係者と親しく付き合う人も目立ちました。問題はその男の持つクルーザーがしばしばソ連の港にも出かけていることです。また、すでに2年も営業していますが、ラーメン屋も怪しい存在でした。警察の外事も目をつけていましたが、ついに牙をむきます。

▼上富良野の第2戦車大隊

 大隊本部、本部管理中隊と4個中隊、74式戦車60輌を装備し、人員は450名です。当時、最新鋭の74式戦車の備砲の口径は105ミリ(英国ビッカース社L7A1の日本製鋼によるライセンス製品)です。他に連装(砲の隣に装備)の7.62ミリ機関銃、砲塔の上には50口径重機関銃があります。
 

 砲塔は現有の90、10式戦車とシルエットが異なりました。「避弾経始(ひだんけいし)」に優れた亀の甲羅に似た形状です。つまり、敵弾をガツンと受け止めるのではなく、表面ではね返し、もしくは滑らせてしまうという発想でした。車体は低く、平たいのです。高さは2.25メートルしかありません。61式戦車の3.12メートルと比べても、約90ミリも違います。米軍から供与されたM41軽戦車も2.73メートルでしたから、これよりも低く、世界中でもスウェーデンの無砲塔S戦車に次いで低いものでした。また、油気圧で作動するサスペンションのおかげで、さらに0.2メートル下げられました。

 備砲から発射される弾の初速はAPDSFS(装弾筒付翼安定式徹甲弾)で1478メートル/秒というものです。この弾を理解するには、串に刺したフランクフルト・ソーセージを想像せよと書かれたのは元陸自武器学校長の市川文一氏でした。ただし、串の先端の尖ったほうが外に出ている状態になります。串にあたる弾が小さすぎるので、装弾筒というサボーが付いているのです。弾が砲口から出たとたんに空気抵抗でサボーが3分割され、砲口近くに落ちてしまい、細い弾だけが飛翔します。

▼侵攻してきたソ連戦車はT62

 T62は1963(昭和38)年に初めて海外に存在が知られました。海外では東ドイツやポーランド、チェコ、アラブ連合にも供与されています。砲は西側のアメリカ軍M60、ドイツのレオパルト1、スイスのPZ61、68などに装備されたビッカース105ミリ砲より一回り大きい115ミリの滑腔砲をもっていました。外形から見ると、砲塔の高さは砲が大きくなったのに高さは低く(2.28メートル)なっています。

 第2特科連隊第3大隊には75式155ミリ自走榴弾砲を装備する2個中隊(10門)があります。その他の3個大隊(第1、第2、第4大隊)には、これまでの牽引式105ミリ榴弾砲8門(2個射撃中隊)で編成されていましたが、列国の師団砲兵中砲化(155ミリ)の波に合わせて火力が増やされています。

 105ミリ榴弾砲M2A1は射程が1万1600メートルです。破片効果は30メートル×20メートルで、155ミリ砲弾の45メートル×30メートルとはずいぶん違います。最大射程も1万9000メートルもあり、その効果は大きな違いがありました。

 また、方面総監直轄の上富良野にある第4特科群第117特科大隊は4個中隊編制です。しかも各中隊は75式HSp5門なので、大隊は20門の155ミリ砲をもっていました。有事には第2師団に配属されて、戦闘団への直接支援火力の増強として使われます。

 25連隊戦闘団の弱点は、その対空火力にありました。第2特科連隊第6大隊は高射専門部隊です。L90といわれた35ミリの2連装高射機関砲をもちますが、戦闘団に支援をできるほどゆとりはありません。元来、発射機2基、射撃統制装置、目標指定機、電源機がセットになりますが、牽引式なので機動力に乏しいことが指摘されました。

 次回は、陸自部隊の配備について、木元氏の記述を紹介します。(つづく)

 

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。

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Posted by arakih