陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(39)重砲の威力と戦車の登場
□はじめに
第1次世界大戦と問われて、どのようなイメージを持たれているでしょうか。第2次世界大戦ならすぐに、原子爆弾、特別攻撃隊、真珠湾攻撃、ミッドウェイ、フィリッピンの戦い、硫黄島、沖縄などという太平洋方面、あるいは中国戦線、はたまた大西洋の戦い、欧州大陸の大会戦などをすぐに思い出されることでしょう。
しかし、第1次世界大戦の全体像を正確にとらえているかというと、わたしも含めて自信のない方も多いのではありませんか。この大戦は世界史でも大きなターニングポイントになりました。新しい兵器が次々と生まれます。戦車や航空機、通信機器、化学兵器、海では潜水艦などなど。大戦が終わり、悲惨な結果を誰もが思い知り国際連盟が創られました。
ところが、第2次世界大戦が起きてしまいます。その後、国際連合が創られましたが、これもまた戦争を無くす力は持っていません。ウクライナでは重武装のロシア軍の攻勢が続き、砲撃戦が行なわれているのです。もちろん、砲撃戦だけはなく、戦車の前進や塹壕によって戦うといった戦闘が行なわれています。
ただし、多くのマスコミも解説が少ないのです。現地の正確なルポなどほとんどされていません。同じく、イスラエルと武装勢力が戦うガザのこともよく分からないのです。
それは戦いの場所がはるか遠くであることと無関係ではありません。マスコミは受け手の関心が高いであろうことを報道します。多くの日本人にとってはるか遠くの出来事であり、心が痛むとか、悲しいといったレベルで語られている以上、そんなに正確で詳しい報道などカネにならないからでしょう。
1916年当時も、新聞では恐ろしい世界大戦といわれ、屍山血河(しざんけつが)の惨状だと報道されてもいます。しかし、現在よりもっと情報が少なく、伝える手段もほとんどなかった時代、どれだけの国民が「他人事」ではなく、自分に近いこととして受け止めたでしょうか。当時の世論を見ると、日露戦後から続く不況を脱出する景気回復の機会だとか、遠くの戦争は利益になるといった気分が高かったことを感じざるを得ません。
そんなことを思いながら、いま目の前に迫っている危機、隣の大国からの嫌がらせや、日本海をはさむ隣国の宇宙兵器の開発などにどう対処すべきかを考えています。
▼開戦3年目のドイツ軍攻勢
連合軍はソンム戦線で反攻に出ようとしていました。反対にドイツ軍は前年にバルカンや東欧での勝利を手にしています。1916年の年が明けると、ドイツ軍は東方では守勢、西方には攻勢を取ろうとしました。ドイツはどうしても2方面作戦を取らざるを得ません。東は守る、そうして西には進もうとします。
目標はフランス軍要塞ベルダンです。攻撃の要領は急襲、十分な大口径火砲を集め、短時間の集中射撃を行い、フランス軍に対応をするいとまを与えないというものでした。攻撃準備射撃の時間は短いものとする、その代わり重砲を中心にした弾量を多くするというものです。
大攻勢は2月21日朝7時から始まります。ガス弾も含めての大砲撃です。なんとドイツ軍は敵陣前500メートルという遠距離から攻撃前進、躍進を始めました。これはそれまでの50~100メートルから前進するといった常識を破ったことでした。フランス軍も当初は混乱しましたが砲兵と機関銃で反撃します。1日が終わって、夕方にはドイツ軍がついに力尽きますが、損害は50万人、フランス軍は30万人といわれています。
ドイツ軍の突進が破砕されたのは、ドイツ軍の死傷者のうち70%がフランス軍砲兵の戦果ということから防御戦闘でも砲兵の価値が高いことを再び示しました。
▼ソンムの激闘
フランス軍は7月1日からソンムで攻勢を始めます。1915年から製造に手をつけた新型重砲の生産、訓練も前年末には終わり、戦訓も生かした用兵も工夫されました。特色としては「対砲兵戦」です。とにかく攻撃の邪魔になる敵の砲兵を潰す・・・そうした戦いが大切だとされました。
そのためには遮蔽された砲兵陣地を見つける。航空偵察が重要になりました。そのためには制空権が必要になります。偵察機を撃墜するための戦闘機の役割が大切でした。空中から弾着を観測して地上部隊に連絡する手段、また実用化されたばかりの航空写真も使われるようになりました。敵砲兵の「放列」の様子や、陣内の配置を知るためです。
また準備射撃でも敵砲兵だけではなく、構築された陣地を撃たねばなりません。フランス軍だけでも火砲1100門、大口径砲64門を準備しました。10日間で発射した弾の数は170万発にもなります。1日あたり17万発です。日露戦争では全戦役期間で野砲弾約80万発、重砲弾が約24万発ですから比べようもありません。
準備射撃の効果は大きいものでした。ドイツ軍砲兵は5日間、ほとんど活動できません。しかし、歩兵の前進ははかどらず、砲兵の推進(射撃陣地を前に進めること)も思うようにならず、ドイツ軍の第2線陣地への本攻撃の開始は8月末になってしまいます。この頃にはベルダンからのドイツ軍の増援が到着し、陣地の争奪戦が繰り広げられました。
ドイツ軍の死傷約45万人、英軍は同40万、仏軍が同30万人。日露戦争の全体で同じく日本軍死傷者22万7000人ですから、これまた規模が違います。当時の国民の多くは、やはり胸が痛むとか驚いたという反響が多いようです。
9月15日の戦闘では英軍は初めてタンクを投入しました。49輌が進撃しましたが、実際の戦闘加入は18輌ほどだったといいます。それほどの戦果はなかったのですが、英軍はこれをきっかけにタンク(戦車)を大量生産しました。なお、タンクとは秘匿名称で水を貯めるためのタンクだと言っていたようです。
ドイツ軍も「極めて惨酷(ざんこく)なると同時にその効果もまた戦慄(せんりつ)するもの」と評価しました。小銃弾や手りゅう弾では歯が立たず、野砲の直射でしか倒せない怪物でした。
▼移動弾幕射撃の成功
フランス軍は年末にベルダンに攻勢をかけました。歩兵の前進にそって、頭越しに敵陣を射撃しました(これを味方の上を越えて撃つので超越射撃といいます)。弾着地は前へ、前へと動いていきます。敵歩兵の前進に合わせて阻止射撃をしようとするドイツ歩兵は頭も上げられず重砲弾で塹壕も崩れました。15センチ以上の榴弾は塹壕に直撃しなくても、その爆発威力で土を崩し、補強用の材木を折りました。
歩兵は砲兵が耕した敵陣地を越えて行きました。この結果、フランス軍はドイツ軍が50万人の損害と半年をかけて手にした地域を、わずか1日で奪い返します。この戦法が17年の春季攻勢(エーヌの会戦)に使われました。
ではドイツ軍はどう考えたか。砲撃を受けたとき、連合軍歩兵の進撃を阻止する射撃を主任務としていました。そのため、多くの砲兵が損害を受けたのです。撃たれているのに撃ち返さない、「対砲兵戦」を重視しないというのは、どうにも我慢ならないということです。敵の砲弾がドイツ砲兵陣地の頭上にやってくる、座して死ぬべきか。敵の歩兵の前進阻止も重要だがやはり対砲兵戦をするべきだとなりました。
金子氏の指摘によれば、1916年末のドイツ参謀総長の秘密訓令は、「空中観測の結果を生かして敵砲兵陣地を射撃することは、防御で敵の攻勢を失敗させる唯一無二の方法だ」というものでした。
(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。