陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(44)1918年、ドイツ軍の暗黒

□地震被害にお見舞いを申し上げます。

 今もなお被災されて避難生活をされている方々にお見舞いを申し上げます。また、支援をされている自衛隊員、消防、警察、自治体の皆さまに感謝です。知人の連絡なども入っていますが、想像を超えるインフラ等の崩壊があります。

 重要な陸路が使えないなら海から物資を運べば良いなどという議論もSNSではされてもいるようです。しかし、海岸の設備も崩壊し、港湾施設も大きな被害を受け、港の海底も隆起したという状況でした。そこへ船舶をもっていけば2次災害が起きてしまいます。

 また、空挺団を投入すればいいなどという実際を知らない記者などもいるようです。もともとその新聞社の人や記者は災害の救援を真剣に考えてもいない人たちでしょうから、何を言っても耳をかさないのが一番の対応でしょう。要は政府や自衛隊の批判、非難、因縁をつけるのが仕事だと思っているから無責任なことを言えるのです。

 先日は第1空挺団の初降下訓練を見せていただきました。少しの風を地上では感じました。陸自空挺は降りましたが、2つの落下傘が接近して素人目にも心配になりました。もっとも、さすがFK社製のわが落下傘、スーッと離れていったことには感心します。

最後に飛来した米空軍の輸送機からはアメリカ兵は降下しませんでした。おそらくあの狭い訓練場に降りるのは万一の事故を考えたのでしょう。実際、最初より少し風が強まっていました。

 そのアメリカ部隊指揮官の判断を尊重することは当然です。戦時の作戦要求に従う緊迫時の降下ならともかく、平時の災害派遣で人を増やすために落下傘兵を降ろすなどまともな考えではありません。ろくに救助用の装備も持たせず、最低限の物資をつけた隊員を状況不明の被災地に降下させる、まともな神経があるとは思えません。

▼突破頭の衝力が維持できなかったドイツ軍

3月21日、午前4時30分からドイツ軍は攻撃準備射撃を行ないます。予定通り5時間の砲撃の後、9時40分頃から攻撃前進が始まりました。この準備射撃はかなりの効き目があり、23日には連合軍の第2線陣地を突破します。場所によっては第3線陣地も抜かれ、陣地帯よりも先までドイツ軍は進撃します。

しかし、こうした突破口内に残った連合軍兵力が抵抗しました。しかも毒ガスが残り、巨大な弾痕があるような地域では、ドイツ軍の輓馬砲兵が前に進むのも難しいことでした。そうしてせっかくの突破頭の衝力は維持できなかったのです。衝力とは物理的な攻撃力、具体的には歩兵の突進力も含めての力を言います。

いくら砲弾が落ちようと破壊されようと、生き残った拠点、陣地にいる敵兵は抵抗を止めることはなかったのです。また、当時の機械力はまだまだ重砲を推進することはできませんでした。だいぶ前の映画、邦題「戦火の馬」(2012年、スティーブン・スピルバーグ監督、原題「War Horse(軍馬)」)にも描かれていましたが、どこの国でも軍馬が野砲や重砲を牽いていました。

各国とも軍馬の保有数はたいへんな数にのぼります。フランス軍は平時保管馬12万5000頭でしたが戦時の所要数は60万頭といわれたそうです。本国や植民地の保有馬数は約310万頭、とてもその47万頭にもなる差を埋められなかったといわれます。なぜなら、そのすべてを自国と勢力圏でまかなおうとすると他の産業の動力源が減り、輸送需要が立ちゆかなくなるからです。

興味深い数字が、『富国強馬-ウマから見た近代日本』(武市銀治郎、1999年・講談社)にのっていました。フランスはアメリカ西部から1頭170円から200円で買い上げ、米国東海岸の港からヨーロッパまで80円の輸送費を支払う契約を結ぼうとしていたそうです。しかも、これらの若駒は騎兵用にはなったけれど、砲兵輓馬や輜重馬にはなれなかったといいます。

当時の1円が現在の7000円ほどとすると、1頭が約120~140万円、それに80円の輸送費が約50万円、合わせて200万円くらいでしょうか。それを数十万頭規模で入手する、そうでなければ砲も動かず、物資も運べないということでした。

▼ドイツ軍の暗黒の日

 連合軍の反撃は夏から始まります。7月18日、ソアッソンでのフランス軍の攻勢でした。18個師団、火砲が1900門、戦車343輌で、カンブレーの戦いが再現されました。やはり戦車による奇襲が成功しました。もっとも、戦車が有効だったのは2日間くらいで、あと2週間はやはり歩兵と砲兵の戦いになったのです。しかし、春の攻勢で失った地域をフランス軍は奪い返すことができました。

 8月8日、ピカルディ付近で戦闘が起きます。イギリス軍は11個師団、火砲2000門、戦車420輌、航空機400機による大攻勢でした。戦闘は英軍に有利、第1日目には8マイル(約13キロメートル)も前進します。しかし、そこで前進は停まります。ドイツ軍の対応がうまく行ったのと、英国軍の火砲が推進できなかったからです。

 このとき、フランス軍も英軍と並行して戦車による攻撃を行ないます。その後、およそ40日で、独軍ヒンデンブルク・ラインの前面に到達しました。春季攻勢で失った地域を完全に回復することができました。ドイツ軍の参謀総長ルーデンドルフが、この8月8日を「暗黒の日」と呼んだことは事実のようですが、彼が戦争の将来は絶望だと悟った日として有名になりました。この後、11月11日に停戦協定が結ばれます。ドイツ皇帝が退位し、いよいよ長い戦争が終わりを告げます。

▼戦争の教訓

 第一次世界大戦は規模を大きくした日露戦争の再現だといわれます。砲兵火力の重要性、野戦陣地の堅固さ、機関銃の有効性が再確認されました。とりわけ戦線が固定化した西部戦線ではその諸条件の有益さは明らかなものでした。まず、最初に互いの砲兵の所在を知り、続いて有効な射弾を送る、そうして敵砲兵を撲滅するといった戦いが当たり前になりました。しかし、それは容易なことではありませんでした。

 戦車も注目を浴びる存在でしたが、その出現当初こそ華々しいものでしたが、その脆弱(ぜいじゃく)性と機動力の不足が指摘されました。航空機もまた、驚異的な進歩をしましたが決戦兵種とは思われませんでした。

 すると戦場の主兵は何か。それは砲兵であると誰もが思いました。「砲兵は耕し歩兵は占領する」、こういった言い方はまさに歩兵の突撃行動は不要になったことを示すものでした。 

 戦傷者の統計も見ておきましょう。日露戦争の砲弾による戦傷者の割合は日本軍8.5%でした。ロシア軍は14%とされます。機関銃弾、小銃弾によるものが日本軍85%、ロシア軍は86%となっています(『兵器と戦術の世界史』)。

 世界大戦でのフランス軍の数字があります。1914年では砲弾創が75%、17年は同76%、18年には同58%です。機関銃弾・小銃弾がそれぞれ23%、16%、30%でした。14年では国境地帯の遭遇戦が主であり、それ以降は陣地戦になって小銃弾が減ってきます。18年には陣地戦が減り、少し砲弾創が減りますが、依然として砲撃の威力が大きいことが分かります。

 砲弾の消費量の統計もありました。1日に1門が平均どれだけ射撃したかというものです。日露戦争のロシア軍は約4発でした。これに比べて、フランス軍野砲は14年には8発、18年には34発になりました。砲弾の消費数、これを射耗数といいますが、英仏軍は各3億発、ドイツは5億発でした。日露戦争での日本軍は国力の最深部までの力を振り絞って100万発でしたから、300倍と500倍ということになります。

 次回は鉄資源の話から火砲製造のことについて調べましょう。(つづく)

 荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。