陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(43)1918年、ドイツ軍春季攻勢

2024年1月15日

□年頭のご挨拶

 明けましておめでとうございます。同時に能登半島の地震、津波などに被災された皆さまにお見舞いを申し上げます。また、亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、いまだに行方の不明な方々の一刻も早い救助を自衛隊、消防、警察、自治体の方々にお願いいたします。

 それにしても、いつものマスコミの、一知半解の素人丸出しの政府批判には飽きがきます。兵力の逐次投入がだめだ、先遣隊の派遣など無駄だ、なぜ一気にたくさんの人員を派遣しないのかというような文句です。それに乗った評論家気取りの連中が、次々と批判的な意見を言います。

 災害の規模、現地の状況、上がってくる報告をまとめねばなりません。すぐに動ける人員、準備してある器材や資材だけを持たせて先遣隊を現地に出す。その上で補給、兵站もにらみ合わせて部隊派遣の規模を決定します。それをどこかで覚えた「兵力の逐次投入は愚かしい」とかいう金言を振りまわす。どうにも現場や実態が分かっていないと思えるのです。

 今回の能登半島の災害は陸路が遮断され、多くの港も設備が壊され、なかなか補給が難しいと想像されます。道路の啓開や補修などに陸自の施設科の重機が運ばれている映像も見ました。避難されている方も3万人を超すとか聞いています。どうか救援の手が少しでも早く、皆さまの元に届きますようにと願わずにはいられません。

▼大砲兵の展開

 ドイツ軍は開戦4年目、1917年9月の東ヨーロッパ・リガの攻勢でロシア軍に毒ガス弾を使いました。ロシア軍は崩壊し、ドイツ軍は攻勢を成功させます。イタリア戦線でも同じく毒ガス弾を大量に使い、イタリア軍を敗走させました。そこで生まれた兵力のゆとりを西部戦線に投じます。

 そうしてドイツ軍は1918年春の大攻勢を企画しました。(1)奇襲、(2)大砲兵火力、(3)短時間の準備射撃、(4)弱点突破、(5)濾過浸透(ろか・しんとう)攻撃がその骨子です。大砲兵火力による奇襲、しかも準備射撃を短時間にする、そうして弱点突破と対になった浸透攻撃、まさに過去の成功例から学んだことをすべて生かしています。濾過浸透攻撃というのは敵の防禦火力の正面を避けて、小兵力でその搦め手というか隙間をねらって攻撃前進する考え方です。

そうして火力陣地を迂回して後方からそれを攻める、これは世界大戦時のロシア軍が開発した戦闘法でした。わが陸軍の観戦武官もこれを学びます。小集団による敵火力陣地の正面を避けた浸透攻撃。これは大規模な防御陣地、鉄条網と機関銃陣地を築いた中国国民党軍を「上海事変(1937年)」で撃ち破ります。もちろん、このことは当時のわが陸軍の下級指揮官たちの判断力や砲兵の射撃精度のおかげでもありました。

▼攻撃重点は英軍陣地

カンブレーの経験から攻撃重点は英軍陣地とされました。また、フランス軍との接際部という弱点をねらったものでした。80キロ正面に70個師団、6500門の軽砲と重砲、3500門の迫撃砲、厳重な秘密保持を行ないつつ展開を完了します。

攻撃準備射撃はわずか5時間、対砲兵戦ではガス弾を普通榴弾の4.5倍も使いました。とりわけ英軍がまだ開発していないマスタード・ガス、まだ有効な防毒マスクが装備されていなかったクシャミ・ガスに期待します。クシャミ・ガスによって敵兵に効力がないマスクを取らせて、そこでマスタードやホスゲンを吸入させようと考えたのです。(『兵器と戦術の世界史』)

浸透攻撃を行なうためには特別に訓練された突撃隊が編成され、その他の一般兵は残された敵拠点を掃討するために使われました。

もう一度、当時の防禦陣地についておさらいしておきます。ドイツ軍は「複線陣地」を設けました。コンクリートで造られた強化地点(ロシア語ではトーチカという)があること、そこには重機関銃が据えられています。重機関銃はその重量で発射反動を受け止め、正確な射撃ができました。

「複線」というと塹壕が複数掘られていることと誤解されますが、実態はもっと規模が大きく、多重の塹壕が掘られた防衛ラインが数段構えで用意されました。それは戦史の政界では「ヒンデンブルグ・ライン」、「ヘルマン・ライン」、「アントワープ=ムース・ライン」、「国境防衛ライン」という4つの複線陣地を設けたこととされています。

対してフランス軍が得意にしたのが「縦深陣地」です。別名では「面防禦」といいます。ドイツ式のライン=線に対しての考え方の違いでした。斜交陣地(しゃこう)といわれるように、互いに援護しながら斜め方向にも射撃ができる構造です。また、大規模要塞を元にして、それを作戦や補給の中心にして防衛戦を行なおうというものでした。

▼射程120キロの大カノン

ドイツ軍が企画したのは大射程を誇るカノンによるパリへの射撃です。これは戦術的なものではなく、いわゆる敵政権中枢への擾乱(じょうらん)射撃というものでした。口径38センチの海軍砲を外筒として、中に口径21センチの陸軍砲を内筒としました。砲身長は34メートル、射程120キロメートル、重量は130トン、弾重は120キログラムです。これだけ砲身が長いとその屈曲への対策が必要となります。砲身の下部には梁(はり)をつけて支えてありました。

砲腔には精度を高めるために敢えて砲口近くに滑腔部を設けます。余分な抵抗を減らし、精度を高め射程を伸ばす工夫だったそうです。弾には仮帽(かぼう)、空気抵抗を少なくするため尖った外形の覆いを着けました。不発を防ぐためにも信管も2個装着します。

約100キロ離れたパリ市内を目標とし、ラオン付近の森林の中に3門を用意しました。発射弾数は303発にも及び、うち5分の3がパリ市内に撃ち込まれます。死傷者870名を出したといいます。射撃は3月から8月までの期間行なわれ、市民の動揺も大きかったでしょう。

フランス軍は音源標定(おんげん・ひょうてい)と航空偵察で射撃陣地を見つけて攻撃を加えます。この音源標定はいまも火光標定とともに、敵火砲の存在を探知するために使われています。発射音を数カ所で測定して地図上で敵射撃陣地を絞り込んでいきました。火光標定とは発射時の砲口から出る火炎や煙を探知します。したがって、いつ撃たれるか不明な場合はどうしても発見が遅れます。

ドイツ軍はあくまでも物質的な損害を目的とする射撃ではなく、戦線後方の市民の活動を阻み、市民の厭戦気分をあおるために射撃しました。擾乱射撃のゆえんです。

次回はドイツ軍の失敗を学びましょう。

(つづく)

 荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。

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Posted by arakih