陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(42)カンブレーの戦い

□年末のご挨拶

 忙しい年末、皆さまどうお過ごしですか。わたしは今年こそ「断捨離」といわれる身辺整理をしようと思っていましたが、意思の弱さからくるだらしなさ、決断力の不足からとうとう何もせずに終わりました。蔵書や資料なども使わないものは廃棄しようとは思ったのですが、意外と新しい視点からすると役に立つものもあり、思い切って捨てることはほとんどありませんでした。

 捨てるといえば、陸上自衛隊では戦車や火砲が次々と捨てられてきました。何度も申し上げるように、わたしが若い頃には戦車や火砲は、それぞれ1100輌、1100門という装備数がありました。それが現在は各300という少数になっています。

 ウクライナでは砲弾が不足し、アメリカでは100万発の155ミリ砲弾を援助するといいます。ロシア軍もなんと北朝鮮から砲弾を購入とか。戦車も不足し、ロシア軍は2世代も古い戦車を補給処から引っ張り出し前線に投入しているようです。

 ちらと聞いた噂ですが、陸自の火砲については新型による更新で、やはり古いタイプの自走砲を廃棄する、そうした動きが見直されてきているとか。しょせん噂にしか過ぎませんが、そんな装備の二重の取得を国家財政の元締めである財務省が許すのでしょうか。わたしはどうもそうは思いません。古い物を捨てなければ、新しいものは買わないという原則をずうっと続けて来たからです。

 過去、日中のトラブルがあり日本陸軍が大動員をされた時代がありました。兵器庫に格納され「ペト(ペトロタラム)・鉱物油」を塗られていた旧式火砲も引っ張り出しました。使わなくなった兵器も保存、保管していたのです。そうして戦う軍隊は機能していました。いま、陸自砲兵の現状を書いていますが、ほんとうに戦えるのか、戦う意思を示せるのかと心配になっています。広く国民全体の意識改革、議論を望みます。

 良いお年をお迎えください。

▼歩戦チームの奇襲成功

 金子氏のご著書から多くを学んでいます。1917年11月、英国軍はカンブレーで多くの戦車を投入して、大攻勢をかけました。8個大隊、378輌と歩兵9個師団です。このとき砲兵の準備射撃をまったく行ないませんでした。日の出の1時間前、濃霧が戦場には立ちこめていました。陣前1000メートルが攻勢発起点、砲兵1000門が支援射撃を行ないます。と、同時に攻撃が始まりました。

 戦車は3輌でチームを組み、それに随伴する歩兵は1個分隊10名ほどです。砲兵の移動弾幕射撃で、戦車の200メートル前方には間断なく砲弾が落ちてゆきました。完全な奇襲です。頭が上げられない砲弾の落下のうちに、霧の中からタンクのシルエットが浮かび上がり目の前に迫ってきます。ドイツ兵はパニックに陥りました。準備射撃があれば、当然、敵の攻撃が予想され対応する物心両面の構えができます。それを発煙弾も加わり、霧もより濃くなりました。そこに多くの兵士が見たこともない怪物が襲ってくるのです。

 攻撃の初日、10時間の戦闘が行なわれ、正面で15キロ、縦深で10キロの突破を許してしまいました。英軍はさらに戦果拡張のために騎兵2個師団を投入します。しかし、残ったドイツ軍の機関銃によって阻止され、騎兵は釘づけにされました。

第1日の戦果はドイツ軍捕虜8000、鹵獲した火砲1000門というものでした。その代償は英軍戦車の損害は105輌、実に投入兵力の約28%が損耗、人員の死傷1500というのですから、後世からは評価もしにくい話です。

▼戦車には野砲だ

 機関銃や手榴弾では阻止できない化け物にはどう対応するか。一時的なパニックに陥り、第3線陣地まで侵入を許したドイツ軍は英軍戦車を阻止します。第2日には野砲が直接照準射撃で戦車を撃ちました。これはのちにノモンハン(1939年の対ソ連戦)でも成功します。75ミリ級の野砲弾に対抗できる装甲などありませんでした。非力なエンジンで重い戦車を運動させることはできません。

 第3日には増援をされたドイツ軍は準備射撃の後に、英軍の側面を突く攻勢を取りました。このときの烈しい砲撃の中にはガス弾まで使われました。おかげで5キロも押し戻され、ドイツ軍は攻勢について自信をつけてしまいます。一方、英国軍は戦車の使用について、その有効さを評価して、1918年の戦闘に活かそうとしました。

 このとき、1門のドイツ軍野砲が大活躍します。戦車10数輌を撃破したというのです。となると本来は間接射撃で用いられるべき野砲を前線に配置することが必要になりました。このことは砲兵の任務が拡大することを意味します。ところが、それは当時の砲兵の運用思想と相反することになりました。砲兵はその射程を活かして縦深、かつ横方向にも射撃方向を生かすのが王道であるとされています。したがって、砲兵としては対戦車戦には熱心になりませんでした。ここから歩兵は対戦車戦では砲兵をあてにすることはなくなりました。

 むしろ歩兵独自の対戦車火砲を必要とするようになります。このように砲兵が対戦車戦から手を引いたことから、金子氏は「次の大戦において決勝兵科の資格を失う行程の第一歩を踏み出すようになった」と記されています。

▼フランス砲兵の制限目標攻撃

 フランス軍は攻勢正面を限定して、支援射撃の密度を高め、砲兵の有効射程の中に攻撃目標を設けるといった「制限目標攻撃」を採用します。結果、ドイツ砲兵は大きな損害を受けました。8月のベルダンではその7割近く、10月のマルメゾンではほぼ全てのドイツ軍砲兵は沈黙させられます。

 問題はマルメゾンでの大きな戦果にありました。実はフランス軍はホスゲンなどのガス弾を大量に使ったのです。カンブレーでガス弾の有効性を知ったドイツ軍も、フランス軍も対砲兵戦ではガス弾を使った制圧射撃をすることで攻撃準備射撃の時間を短くできることを確かめました。

 こうして対砲兵戦にまつわるさまざまな問題、敵陣地をどう発見するか、十分な射撃量を確保するにはどうするか・・・それらを一気に解決するのはガス弾の急襲使用だという結論になりました。

 

 次回、新年の記事はドイツ軍の春季大攻勢を学びましょう。

(つづく)

 荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。