陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(41)平等の和平を目指す

□いまも台湾・尖閣が

 驚きました。地方政治家が首長選挙で「尖閣・台湾など中国に渡せばいい」という公開の発言をしたとか。ええ~?小さな市の市長さんになろうとする人が領土に関して他国への「内政干渉」を公言するのかという驚きです。しかもリベラルに分類されるような日頃は主張をするグループの応援を得ている人だとか。

 先週もご提言したように、さまざまな世論工作がされています。次の総理には誰が良いと思うかというアンケートへの答えは、何の実績もない自民党議員やとんでもない主張をしている素人党首が高位にあがる始末です。民主主義国家のルールに従えば、次の総理は党費を納める自民党員だけが選ぶ自民党総裁のほかありません。

 党員投票、両院議員総会で過半数が取れないような人が首相になっていいわけがないのです。そうした妙なアンケートを取っては公開するのは、下心あるマスコミの愚民化工作と断言していいのでしょう。さて、今回は平等の平和の実現を主張していたアメリカ大統領の話です。

▼ウィルソン大統領と国際連盟構想

 当時の第28代米国大統領、ウッドロー・ウィルソン(1856~1924年)は国際平和について大きな構想を抱いていました。それは「勝者なき和平」でした。国際連盟の構想については、平等な立場での国家間の話し合いによる平和維持です。戦争終結でも、賠償や領土割譲など「屈辱」、「犠牲」、「苦痛」、「憎悪」を残す条件をおしつけるものではないというものでした。

 こうした意向がドイツ側に伝わると当然のように反発が湧きおこります。それは戦前への回帰ではないかというわけです。何の見返りもないなら国民の不満はどうなるか、流血、戦費の負担に耐えて来た国民は怒るのではないか。それなら米国の仲介などあてにせず、必勝の潜水艦戦に訴えるべきではないか。それがドイツ上層部の意見になりました。

 「連合国」支援の船舶は撃沈されます。その成果は1916年10月から飛躍的に上がりました。12月までの3カ月は、それまでの3カ月間のおよそ2倍にあたる約106万トンにものぼります。当然のことですが、アメリカ船の被害は多くなり、乗員の犠牲もまた増えました。アメリカ国内では非武装船舶への攻撃の非道さへの怒りが高まります。参戦気分も増えてきます。

▼日本艦隊参戦決定

 英国は開戦当初、わが海軍の行動を制限しようとしています。それがとうとう対潜水艦戦、商船の護衛のために地中海に駆逐隊1隊、巡洋艦2隻をアフリカ南端喜望峰に派遣して欲しいと要求を出しました。

 開戦時の大隈重信内閣は、「物は出しても手は出さぬ」を主張しています。経済的援助はするけれど武力は提供しないということです。どこか平成の時代、クウェート侵攻、湾岸戦争のときを思い出します。

 「連合国」側として参戦した以上戦って欲しい、今のような「準中立国」のような態度では戦後の「勝利の果実」も受け取れないことになるぞという脅しもありました。

 海軍省と軍令部は1月24日に「派艦要領」を海軍大臣に提出します。

(1)喜望峰には巡洋艦「対馬」、「新高」を派遣する。地中海には巡洋艦「明石」と駆逐隊2隊から成る水雷戦隊を送る。1個駆逐隊は駆逐艦4隻で編成され、駆逐隊司令たる大佐が指揮します。それを2個合わせて少将が司令官を務める水雷戦隊にしました。

(2)これ以上の艦隊は派遣しない。

(3)派遣艦隊は日本人指揮官のもとに英国海軍と協同作戦を行なう。英国海軍の指揮下には入らない。

(4)地中海派遣部隊の行動は地中海のうちに限られる。

(5)作戦間の兵器、海図、燃料、その他は英国が負担し、軍需品のコロンボより西の輸送は英国側が担当する。

▼1月31日、ドイツ無制限潜水艦戦を宣言

 ドイツは2月1日午後6時に無制限潜水艦戦を開始すると通告しました。ただし、指定水域にある中立国船舶の2月5日までの退去を認めます。中立国沿岸20カイリまでを航行する「貿易船舶」は攻撃しないという方針も出しました。

 2月3日、ウィルソン大統領はドイツとの国交断絶を発表します。ただし、ドイツと戦争をするという決意ではないと議会で演説しました。議会は騒然とします。「腰ぬけだ!撃たれてから撃つというのか」、「欧州戦争に米国人の血を流す必要はない」、これらが賛否両論の意見です。これまた、台湾に侵攻があったらという現在の論戦によく似ています。

 憲法9条を守った専守防衛では、手を出されてから撃ち返すことになります。そういう最初の犠牲は仕方がないという論者もいます。いや、そうなるまでに話し合いだ、きっと外交努力で何とかなるだろう。その上で、もし台湾に中国が侵攻してもわが国には関係ないという主張がマスコミからも聞こえてきます。

 2月26日には「商船武装法案」を大統領は議会に出しました。外交手段で攻撃を防げないなら武装中立を採用するしかないということです。また、明らかにドイツ潜水艦の攻撃への抑止力を高めるためです。

▼アメリカ参戦す

 3月にロシアのロマノフ王朝が倒れます。革命です。4月にはとうとうアメリカが連合国側に立って参戦しました。しかし、訓練・装備が間に合いません。軍隊の欧州への派遣は1年半ほど後の2018年末頃と予想されました。工業潜在力は大きくても、戦える軍隊を造り上げるのは大変なことです。

 装備や弾薬の拡充はすぐに出来ます。問題は指揮能力のある将校と、それを支える下士官と兵士たちはすぐに養成できるわけではありません。いま、ロシア軍もウクライナで苦戦しています。それはロシアも軍縮を30年も続け、人の養成も数少なくなっていたからです。装備は保管されていたものを復帰させることができます。しかし、それを有効に使える能力のある将兵は突然生まれるわけではないのです。

 アメリカ軍はその軍隊の編成・訓練をフランス軍に委ねました。1917年7月からフランスではアメリカ陸軍将校の教育を始めます。また、500人ものフランス軍将校をアメリカ本土に派遣しました。

 装備の不足の中でも目立ったのは火砲です。野砲1900門、野戦重砲1000門をフランスはアメリカに贈り、砲兵をフランス式に編成します。戦車240輌や航空機も供与しました。こうして米軍が戦闘に加入できたのは2018年5月になりました。

 次回は「歩戦チーム」の奇襲成功、カンブレーの戦いから解説します。

 (つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。