陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(30) 両軍の砲兵
□ご挨拶
昨日(30日)は久しぶりに、陸上自衛隊富士学校にうかがいました。創立69周年の式典、簡閲行進、訓練展示などを拝見し、「ウサデン」を見すえた装備や訓練のお話なども耳にできました。宇宙、サイバー、電磁波の頭文字をとれば「ウサデン」です。これからの戦争は、これまでとすいぶん違ってしまうと思います。
同時に考えたことは、アメリカは155ミリ砲弾を月産10万発にするという報道についてでありました。もちろん、ウクライナへの援助を見すえた数だと思いますが、砲弾の大増産はさすがです。「ウサデン」でも火砲数や砲弾の準備はどうなのでしょう。わが国は大丈夫なのでしょうか。聞きそびれました。
▼砲兵の全体
さて、前回は各種火器の射程からみた戦場の様子にふれました。とりわけ、ロシア軍の歩兵中隊の記録、3000メートルくらいで日本砲兵の榴霰弾攻撃にさらされた話です。
もう一度、日露戦争の全体像をみてみましょう。全軍13個師団の砲兵聯隊は、6個が野砲編成、6個が山砲編成で1個が野・山砲混成でした。ほかに軍砲兵として2個野砲旅団の5個聯隊(10個大隊)とクルップ12珊榴弾砲大隊2個で編成された野戦重砲1個聯隊がありました。合計12個大隊で、13個師団にわりふると、おおよそ1個師団に1個大隊弱の軍砲兵があったのです。
軍とは複数の師団で構成される単位でした。師団長は中将でしたが軍司令官は大将でした。軍には参謀長(少将)以下のスタッフがおり、司令部がありました。その軍司令官の直轄する砲兵を軍砲兵といいました。いまの陸自でも師団長、旅団長の隷下にある野戦特科連隊と特科隊があるのに対して、方面総監に直隷する方面特科隊などがあります。攻勢重点の戦域に軍の計画にしたがって増援される砲兵隊です。
ただし、日露戦争の時点では12榴を除いては、すべて口径75ミリの31年式速射野砲でした。野戦築城が発達した野戦では、なんとも威力が不足しておりました。しかも、準備された砲弾の種類は榴弾10%、榴霰弾90%という状況です。むしろ威力が不足しても榴弾を90%、榴霰弾を10%という比率が逆転しても良かった。ですが、これまた結果を知っている後世の後出しジャンケンです。当時は誰も戦場の様相など想像できなかったのでした。
旅順の攻城重砲兵についても、その実際はあまり知られていません。当初は旅順要塞攻撃については、日清戦争以来の青銅製9珊臼砲、それに12珊加農、15珊臼砲、それにクルップ12珊榴といっしょに買い入れた15榴16門で「徒歩砲兵」3個聯隊を編成しました。しかし、威力があったのは12榴と15榴しかなく、28珊榴弾砲を国内の要塞から外して持ち出すことになります。
▼日本砲兵の快勝(得利寺の戦闘)
1904(明治37)年6月15日のことでした。ロシア軍野砲約20門が龍王廟(りゅうびょうおう)高地の稜線に放列を敷いていました。眼の下に展開する日本歩兵を撃っていたのは、自慢の砲身後坐自動復坐式の1902年式野砲(76.2ミリ=3インチ)でした。
これに対してわが主力砲兵が3方向から包囲的に砲撃をし、ロシア兵を潰走させました。敵陣に乗り込んだのは野砲兵第3聯隊長で、弾を装填したままの敵野砲を鹵獲し、ただちに敗走する敵に射撃を加えたといわれています。火砲16門を奪い、射撃した砲弾数は1門あたり83発だったそうです。
ロシア軍野砲はカタログデータでは、毎分20発を撃てるとのことでした。しかし、実際のところは戦場ではなかなかそうはいかなかったともいわれます。ロシア軍側の記録からは、制式化されて3年目になる新型砲の弱点がうかがわれます。その性能を完全に引き出せたかというと、どうも難しかったようです。
そのことは新型兵器を交付すると何が起きるかを考えると良いと思います。まず、性能が上がれば、それにふさわしい教育・訓練が必要です。訓練の体系が変われば、移動や陣地の構築なども変わり、将校・下士官・兵卒に要求される資質や能力も変化します。
次に整備・補給、それらの資材などの補充・管理・備蓄などが変わってしまう。いまもウクライナに西側の新型戦車を供給しようとしても、戦車指揮官、乗員の訓練などで数か月はかかってしまうと言われます。火砲も同じです。アメリカ製の最新式の野砲を提供しても、照準し、射撃し、観測し、照準を変え、次発を装填し、陣地を移動させるとなると、兵器は誰もがすぐに操作できるおもちゃではありません。
▼ロシア砲兵快勝す(大石橋の戦い)
つづいて第2軍(第3・4・6師団)は遼陽(りょうよう)を目指して北上します。7月24日のことでした。ロシア軍砲兵は初めて間接照準・遮蔽陣地を採用したといわれます(『兵器と戦術の世界史』金子常規・中公文庫・2013年)。
野砲とは本来、直接照準をするものでした。もとが加農ですから直射能力が高く、目に見える目標を撃つのが直接照準です。いまも戦車の戦いはそうですね。マッハ4から5にもなるような砲弾が2キロ先の敵戦車に命中します。当時の野砲も陣地に身を隠すこともなく、稜線の上に高々と砲口を見せて射撃するといったのが常識でした。
間接射撃というのは目標と砲の間に遮蔽物をおいて、別のものを狙って撃っても計算が正しければ弾は目標に落ちるという射撃です。正確な地図と観測能力があって、敵が見えなくても撃つことができるといった射撃法でした。もちろん、日本砲兵にはできなかったというのは俗説ですが(多くの歴史小説などはそう描かれています)、とりあえず、この戦闘でロシア砲兵が初めて間接射撃を行なったのは事実のようです。
当時もいまも、敵砲兵の存在を知るには発砲炎や砲煙を見つける、敵弾の飛来音から推測するなどの方法があります。遮蔽陣地は敵を見つけにくくなりました。
ロシア軍はそれまでの経験から、砲数を減らし、輓馬の数を増やすといった機動力の向上を図りました。この戦い以後、ロシア軍は野砲喪失が減ってきます。
日露戦史から金子氏は当時の状況を描かれました。
「・・・敵砲兵克く遮蔽して所在明かならず、而もその火力猛烈なり。・・・敵火愈々(いよいよ)猛烈にして将校の死傷相つぎ、十一時に至り敵弾の集注益々甚しく、遂に全聯隊暫く射撃を中止して全く掩蓋内に隠匿するに至れり」
このときのわが砲兵の射耗数は1門あたり80発、全弾数は榴弾3000発、榴霰弾1万8000発と記録にあります。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。