陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(29)日露両軍の戦い

□陸軍は麦飯を支給した

 UYさま、お問い合わせありがとうございました。実はわたしも1976(昭和51)年に『日露戦争の軍事史的研究』(大江志乃夫・岩波書店)を読むまでは、陸軍は森鴎外軍医の主導の下、頑固に麦飯を支給せず、いたずらに損害を出し続けたと信じていました。また、海軍の現実的対応、とくに高木兼寛軍医総監の英断でパン食を実施、海軍では脚気患者が激減したというお話を確かなものと考えていたのです。

 ところが、その後、陸軍軍医制度を調べながら疾病について調べていた頃です。軍事史的研究では満洲軍が大麦を支給していたことが事実とされていました。陸軍衛生史や日露戦史などの公刊文書を読んでみました。また兵士の日記などの記述から見てみると、輜重兵は麦を運び、兵士たちは白米に麦を混ぜた飯を支給されています。そうして開戦から2年目の1905年には、実際に脚気罹患者は減っていたのです。

また、海軍衛生史の文献からは海軍のパン食は兵士が嫌がり、長く続きませんでした。むしろビタミンを含んだ副食の改善が脚気罹患減少をもたらしていたと考えられる記述があります。

わたしが面白かったのは、「精神主義」とされてきた陸軍が衛生方面ではひどく科学的態度を重んじ、理論を大切にしたことです。また逆に科学的合理主義とされてきた海軍が、理論軽視の現実主義的対応をしたことでした。イメージとはずいぶん違うのだということです。

 もし、お時間があれば医学史の方面からは『鴎外森林太郎と脚気論争』(2008年・山下政三・評論社)あるいは、一般向けに解説した拙著『脚気と軍隊』(2017年・並木書房)をお手に取ってくださればありがたいです。

□馬6頭のトレーラー

 KYさま、お祖父さまのお話、惜しいことをされました。20世紀の初めには、列国ともに1トンあまりの砲車を曳くのは3駢(べん)でした。駢は「ならぶ」と読み、2頭が並列することです。したがって6頭が要りました。

砲の左右・前後は砲尾から砲口に向かって呼ぶので、前車とは2輪の弾薬車をいい、砲身と砲架、車輪2つの砲車は後車となりました。放列といわれるのは前車との連結を外し、砲車だけを言うものだということは前にも書きました。

 6頭の調教された馬、2頭が並んで3列になった馬たちを、前から前・中・後に分けます。進行方向に向かって左を服馬(ふくば)といい、それぞれに馭兵(ぎょへい)がまたがりました。右の馬は人を乗せず、参馬(さんば)といいました。それに4輪トレーラーの操縦手が乗るので4人で動かしていたことが分かります。

陸軍砲兵の歌、「ガタゴト節(ぶし)」の中に「粋な小粋な前馬馭者、ユウドアッコ(遊動圧控)の中馬馭者、イノチ知らずの後馬馭者」と描かれています。車輪が自在に角度を変えることもできない大きな、重い荷車です。それを馭兵たちの鞭と手綱で操縦していました。日華事変の従軍記章をもたれた砲兵のおじい様、貴重な語り手であられました。

▼日露戦争の画期性

 軍事史的には異論がある方もおられましょうが、20世紀初めの日露戦争は画期的なものでした。まず、両軍の主要小銃が連発銃になりました。ロシア軍は口径7.62ミリ、日本軍は新しく採用された同6.5ミリ、いずれも遊底の上部を開けて5発の弾を押し込みます。あとは槓桿(こうかん)を前後に操作して連発ができました。しかも無煙火薬の採用で射程がずいぶん伸びたのです。無煙火薬はさらに、敵に発砲煙によって所在を分からせるといった黒色火薬時代と異なる射撃戦をなくしました。

 次に機関銃が野戦で使われます。機関銃は小銃と同口径で、ロシアは主に水冷式、日本は空冷式で連続発射が可能でした。もともと両軍ともに機関銃は要塞に据えつける防禦用の兵器です。俗説に「日本軍は初めて機関砲を見た」というものがありますが、それは大正時代(あるいは日露戦後すぐに)からねつ造されたウソでした。実際は日本陸軍の機関銃採用の歴史は列国でも早い方です。

 3つ目は野戦砲が両軍ともに速射砲になりました。ロシアは砲身後座式で、もちろん復座します。日本軍は砲車後座でガラガラと後退はせずに、前にも書いた工夫でせいぜい1メートルもさがりません。野砲の発射速度は向上し、あたかも門数が増えたと同じ効果をもたらしました。

 4つ目は野戦陣地の構築が本格的になります。塹壕を掘り、掩体を造り、上部から降ってくる榴霰弾の弾子から兵士を守りました。陣地にこもった頑強な敵兵を追うには、安全な屋根付きの陣地から撃たれる機関銃の弾の嵐に耐えながら突進することが必要でした。

 5つ目は両軍ともに本国から長大な補給線を維持したことです。ロシア軍はシベリア鉄道でヨーロッパロシアから物資・兵員を運びました。わが国は海を越えなければなりません。野戦軍100万を養い、戦いを続けるにはどうしても海運の安全で効率的なシステムをつくらねばならなかったのです。広島の宇品(うじな)はその海外への補給物資や補充の人員を積みだす重要な港でした。

▼日露両軍の戦い

 映画でも小説でも旅順要塞の攻防はよく描かれ、そのイメージは「肉弾」でしょう。しかし、実際にはそれは戦争のごく一部であり、両軍の主戦場は満洲でした。そこではどんな戦いがあったか、外国人の記録や偕行社記事などによく現われています。

 靖国神社に祀られている戦死者の数は、陸軍約8万5000余り、海軍は同3000人となります。戦地に出征された陸軍軍人は約94万5000。うち約52万人が歩兵科の将校・下士卒でした。この歩兵のうち戦闘死者(即死と受傷後に死亡)は約6万人、これは戦闘死者総員のうちの約93%にもなりました。

 まさに日露戦争は歩兵の戦争だったといっていいでしょう。では、砲兵の戦いはどうだったか。そこの記録を掘り起こしていきましょう。

 当時の外国観戦武官による報告書は参謀本部によって翻訳されました。それによると、歩兵の小銃射撃は「防御側ニ心理的重圧ヲ加エル」ものでした。進んでくる敵兵は威圧感をもって迫り、塹壕から、あるいは堡塁から射撃する歩兵の狙いは上を向くそうです。

このことは戦後の偕行社記事に載る実戦談も同じようでした。兵士は落ち着いて射撃することなく、「ナギナタかぶり」と言われるような据銃しかしない、弾はみな敵の頭上に飛んでいってしまう、そんなことが書かれています。

 では、戦争全期間を通じて最も戦死傷の原因となったのは何だったのでしょうか。それは銃弾創でした。つまり、小銃弾ではなく、基本的に小銃を同じ弾を撃つ機関銃だったのです。機関銃はその重量が小銃の10挺分以上になります。発射反動を重量が吸収し、沈着な兵士が操作すれば「薙射(ていしゃ)」ができました。まさに薙(な)ぐでした。弾道は深く沈み、上向くことはありません。

 「砲は・・・敵の銃火をおかして1500メートル以内に近づくことはできない」と報告されています。機関銃は400メートル以内で猛烈な威力を発揮しました。野砲の榴霰弾は友軍の頭越しに射撃をしましたが、その敵と味方歩兵を隔てる距離は1000メートルとされています。

 ロシア軍の歩兵は密集隊形で前進したために、日本野砲の榴霰弾の射撃に3000メートル付近で大被害を受けました。有効射程の半分くらい、ちょうど榴霰弾の効率が最も有効な距離が3000メートルだったのです。

 同じようなことが日本歩兵にも起きました。南山の戦闘である歩兵中隊は敵砲台の前、2000メートル付近で各小隊を4列側面縦隊(隣の兵との距離は約80センチ)で前進させたところ、敵15珊榴弾が落下し、9名の即死者と10数名の重軽傷者を出してしまいます。

次回はさらにリアルな戦闘の様子を調べてみましょう。
 

 荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。