陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(28)馬と大麦
□はじめに
そういえば、対戦車ミサイル・ジャベリンはどうなったのでしょうか。わたしなどと違って、評論家や軍事専門家といわれる方々は大変ですね。マスコミに聞かれたら、すぐに要求される答えを出さねばなりません。たしか、もう戦車や火砲の時代は終わりだ、携帯にも便利で効果も高い、対戦車ミサイルさえあればいい。開発費、維持費、運用するにも経費がかかる、なにより高価な戦車や大型火砲に比べて安い。そんなことを政官界の方々もおっしゃったとか。
反対にロシア軍は砲弾不足になり、北朝鮮製の砲弾を買うとかの観測話も聞こえてきます。おかしいですね。戦車が無力で、火砲も役に立たないというのなら、ひどく安上がりな戦争をウクライナではしているようです。ほんとうのところはどうなのでしょうか。
わが国では火砲も戦闘車両も次々と溶鉱炉に送られています。74式戦車も順次廃止され、おそらくは各地の駐屯地に展示資料として残されるだけでしょう。
今回はあまり知られていない日露戦争の兵站のお話をしておきます。
▼野砲兵聯隊の戦時編制
日露戦争の開戦時の野戦兵力の主力は、近衛師団と第1から第12までの13個師団でした。つまり、近衛野砲兵聯隊と、第7師団を除く各師団砲兵聯隊は次のような編制になっていました。第7師団だけは野砲2個中隊の第1大隊、山砲2個中隊の第2大隊という戦時編成でした。各聯隊は聯隊本部の下に3個大隊(6個中隊)、聯隊段列をもちました。
砲兵中隊は本部、戦砲隊(弾薬小隊と野砲も山砲も6門の砲車隊)と中隊段列からなります。行軍時の携行弾薬定数は野砲が戦砲隊86発、中隊段列に50発、聯隊段列に50発という区分です。弾薬小隊は弾薬車3輌と予備輓馬をもっています。中隊段列には弾薬車3輌と予備品車1輌の構成です。
すると、中隊の保有馬数は砲車6輌で6頭×6=36頭、弾薬小隊の弾薬車に各2頭ずつで6頭、予備に4頭とすれば合計で46頭になりました。他に乗馬や輓馬、駄馬があり、おおよそ60頭あまりもいたわけです。
その馬たちはどこからやってきたか。もちろん、平時保管馬という日常の訓練のための馬がいます。ただし、それだけで足りるわけではありません。
▼機動力の元が問題だった
開戦の前年の1903(明治36)年には陸軍大臣寺内正毅が農商務大臣清浦奎吾(きようら・けいご)に次のような要望を出しています。平時の毎年に必要な補充数は乗馬約2500頭、駄馬450頭。戦時に必要とする馬数は13個師団に対して乗馬約11万9600頭、輓馬約21万8400頭、駄馬約11万8300頭。
深刻な現状認識も述べられています。以下、要約しましょう。
「近頃、火器の改良にともなって戦術も変化した。戦術の変化は騎兵、砲兵にいっそう運動力の向上を要求する。したがって軍馬は昔と比べてほとんど2倍の能力を必要とするようになった」
ところが、とても希望した通りにはなりませんでした。
「現に砲兵でいえば、その火砲は速射性も射程も決して列強の火砲に劣るものではない。ただ、輓馬の力が足らず、その運動力が低く、まるで火砲の威力が低くなるようなものだ」
野砲も、これまでの4頭では済みません。6頭立てになりました。
▼馬の動員
日清戦争では徴発された馬の数は約3万5000頭でした。これは全国で飼われていた民間馬の数が約150万頭として約2.3%です。実際に陸軍の求めに応じて差し出された馬の数は約14万7000頭でしたが、その合格率は24%強でしかありませんでした。
海を越えた出征軍馬数は約2万5000頭、内地の準備馬は約2万頭とされます。
日露戦争では、10年前の日清戦争時代よりも徴発馬はいくらか資質が向上しました。肩までの高さで馬の大きさは測りますが、育成補充馬の平均体高が4尺8寸7分、つまり約147.6センチ、一般からのそれは約144.5センチとあります。10年間でそれぞれ2センチほど向上しました。
しかし、日清戦争期の列強の砲兵輓馬の体高はドイツ5尺4寸2分(約164.2センチ)、フランスは5尺1寸7分(同156.7センチ)とずいぶん差があるものでした。また輓馬にとって重要な輓曳力(ばんえいりょく)の記録もあります。わが軍馬が87.7貫(約330キログラム)であるのにドイツ、フランスの輓馬は127.7貫(約480キログラム)となっています。
馬の負担量は、常足で馬体重の4割です。江戸期からの駄馬は2俵の米を背中に載せました。乗用馬車、馬に曳かれた荷車が、地形やインフラの未整備のために発達しなかった江戸時代です。米の2俵は32貫で、120キログラムです。これから逆算すると、自分がせめて300キログラムの体重がないと普通の速さで歩くことができません。さらにゆとりを考えれば90貫の体重が必要とされました。338キログラムです。
ところが、わが国の馬匹の平均体重は60貫(225キログラム)でしかなかったのです。30貫(112.5キログラム)も不足していたのでした。これでは日露戦争の観戦記録に、「鹵獲(ろかく・敵から奪うこと)したロシア野砲を8頭の馬でも牽くのが難しかった。これに対してロシア馬はわが国の野砲を4頭で軽々と動かしていた」とあるのも無理はないですね。
▼大麦とその生産
大麦は濃厚飼料といわれました。大麦はもともと人が食べるもので農家が自家消費するものでした。暮らしの中で農業用に飼われていた馬は草や藁(わら)を食べていました。日露戦前の軍馬は約3万頭でした。それが開戦の2年目(1905年)8月には17万2000頭になっています。
濃厚飼料を含んだ野戦馬糧の定量は、「戦役統計」によれば1日あたり大麦5升(9リットル)、干草1貫(3.75キログラム)、藁1貫(同前)でした。すると、大麦は1日だけで8万6000石余りの所要量です。1石は150キログラムとすれば、1万2900トンです。10トンを積載できるトラックで約1300台にもなります。
もちろん、記録に残る野戦糧秣廠や同倉庫の記録を見ると、大陸の現地調達が3割近くを占めることも明らかです。だから、すべてが国内産だったわけではありません。また、重要な脚気対策として「挽き割大麦」が兵食として支給されたこともご存知の方も多いでしょう。そんなこんなで大麦の必要量が増えています。
陸軍糧秣廠が購入した大麦の量も分かります。1903(明治36)年産の大麦を61万3200石、翌年産の麦も279万8830石、その翌年の5年産も67万1460石となっています。1904(明治37)年産の買い上げになった約280万石の大麦は全生産高の約34%にもなりました。
このことは、全国の農政にも大きな影響をおよぼします。北海道の燕麦(えんばく)生産が大きく増えました。また、陸軍省経理局からおろされ、留守師団経理部を通じて行なわれた干草製造法の指導なども北海道の畜産の発達に大きな影響があったという指摘もあります。
また米生産が中心の農業から、馬糧としての大麦が刺激となった洪積台地(つまり、水の便が悪い)の開墾と、製粉材料でもある小麦生産へと変化してゆくきっかけにもなりました。
次回はいよいよ日露戦争の野戦について調べましょう。
(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。