陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(27)速射野砲の開発と日露戦争

□はじめに

 久しぶりに関東地方を直撃する台風13号でした。線状降水帯という言葉もすっかり耳に慣れました。子供の頃は、雨台風とか風台風とかいう言い方しかなかったので、やはり気象に関する学問も進み、予報の確実度も上がっていますね。

 今回から少し筆を進めて陸軍砲兵史を急いで書いていきます。陸上自衛隊砲兵の話、現在のウクライナでの砲撃戦の様子や、新しい榴弾砲の話にも進めたいと思っているからです。

▼駐退機と復座機

 大砲はその開発の当初から発射反動による後退が宿命でした。大量の火薬ガスのおかげで弾は出ますが、砲身が後方へ下がる動きはどうにもできません。輸送用の砲車のおかげで砲身はガラガラと後ろへ下がり、再び発射位置に戻す、その上で照準を着け直すという手間がかかりました。これをなんとか、砲車の位置が変わらないようにする。それを各国が競争していたのが19世紀の末のことでした。

 ドイツもフランスも新機軸を考えて、砲身が後退することを少なくする工夫に励みます。これを駐退機能といいました。砲身を元の位置に戻す、これを復坐(座を使うこともある)機能としました。あわせて駐退復坐(ちゅうたいふくざ)機構といいます。

 わが国でも日清戦争の終結から、欧州式の「速射野砲」の開発に挑みました。ドイツのクルップ社はすでに1896(明治29)年には、これまでの黒色火薬を廃止して無煙火薬を使った速射野砲を完成させています。

ここでわざわざ「速射」という名称をつけた理由は、その駐退復坐機構のおかげで発射速度が大きくなったことからです。それまでの野砲を復座さえて再装填、再照準の時間が大きく短縮されたからでした。毎分1~2発に過ぎなかった発射速度が5発から6発に増えれば、単純に考えて火砲数が3倍にも増えたことと同じになります。

▼仏独の競争とスパイ事件

 エミール・ゾラ(1840~1902年)というフランスの文豪がいました。有名なのは彼の「わたしは弾劾する」という告発宣言であり、あるいは「千万人といえども我ゆかむ」という勇気ある言葉でしょう。彼が立ちあがったのはフランス陸軍のドレフュス砲兵大尉のスパイ事件の真相解明、大尉の名誉回復です。

 1894(明治27)年の夏、ユダヤ系でアルザス州出身のドレフュス大尉はスパイ容疑で逮捕されます。免官、終身流刑の判決を受けました。彼の容疑は、速射野砲の機密をドイツ大使館の武官に渡したというものです。これがユダヤ人に対する差別意識の表れとされて、真相を情報部のピエール中佐たちが追及します。1906年に大尉の無罪が確定しましたが、この情報漏洩事件が速射野砲に関するものだったとは、わたしも最近知りました。

▼31年式速射野砲

 設計者は有坂成章でした。日本陸軍は日清戦争直前の1892(明治25)年には、大山巌陸軍大臣は砲兵会議に新型野山砲について諮詢(しじゅん)を行ないました。砲兵会議は当然のように速射野山砲の採用を答申します。この頃、有坂砲兵少佐はドイツのエッセンに出張中です。クルップ社の技術を学ぶためです。

 1895(明治28)年には日清戦争の勝利を受けて、いよいよロシア軍と戦うことができる新しい野戦砲を開発することになりました。そうして翌96年5月には千葉県の下志津原(しもしづはら、現在の四街道市や千葉市の一部)で外国各社のエントリーを受けたトライアルが開かれます。

参加した外国メーカーはホッチキス、アームストロング、クルップ、カネー、ダルマンシェー、シュナイダーなどの有名メーカーでした。それに加えて、有坂砲兵大佐、秋元砲兵中佐、栗山砲兵少佐が設計した国産試製砲です。

 クルップ社の2門の砲身は当時、最高の強度を誇ったニッケル鋼でした。他社はみな、わが国の秋元砲も通常鋼で、有坂、栗山砲は礬素銅(ばんそどう)です。礬素とはアルミニウムのことで、明治26年には大阪砲兵工廠で青銅に加えて各種試験を行なった結果について文書が残っています。つまり各種銃砲に採用できないか、すでに実験を繰り返していたことが分かっています。

 たいへん重要なのは、機動力に関係する放列砲車重量です。最も重かったのはダルマンシェー、シュナイダーの2社で900キログラムを超えています。最軽量はホッチキス社の450キロ、採用された有坂砲は846キロと全体の中では第3位の重さでした。あまりに重ければ輓馬の能力を超えてしまいます。また砲の各部の重量、それはとりもなおさず堅牢度に関わります。軽ければ強度上から装薬量に関係しました。射程に違いが出てしまうのです。

▼有坂設計の速射野砲の採用

 射撃試験のほかに野砲で重要な性能は機動性です。明治30年の10月には、この外国製速射砲の運行試験が三島(静岡県東部)と箱根の間で行なわれました。そうして31年の3月には制式選定会議が開かれます。会議では外国製、国産、いずれも一長一短があるものの有坂砲が制式の基準とし、改修を加えてゆくこととなりました。

 およそ半年後には第1号砲が完成します。製造材料買付けのために砲兵将校達はフランス、ドイツに設計図をもって出張し、クルップ社、シュナイダー社に砲身、砲架、弾薬車、榴霰弾の弾体などを発注します。この材料の完成は明治33(1900)年5月までかかりました。

 明治32年6月上旬、陸軍次官、砲兵会議長、軍務局長、大阪砲兵工廠提理(ていり・廠長の職名)が会議を開き、「三十一年式速射野砲」と制式名がつきました。10月にはこれまでの各種テストに使われる試製砲7門とべつに、制式品23門の製造を始めます。1年後の33年11月から、野戦砲兵射撃学校と近衛野砲兵第1聯隊へ支給され、36(1903)年2月までに全国の部隊で装備更新が終わります。

▼特徴的な砲車復坐

 列国の制式砲は主に砲身復坐機能が付いていました。砲車はゆるぎもせずに動かず、砲架の上を砲身が滑り動き、また元に戻ります。ところが、この31年式速射野砲は砲車が後退します。どういう仕組みになっていたのでしょうか。同じころのクルップ社製12珊榴弾砲も砲車が動いていました。

 では発射反動をどのように吸収していたのでしょうか。当時の砲架には単箭(たんや)といわれた脚が伸びています。この先端は架尾(がび)ともいわれ、そこには地中に突き刺して固定する駐鋤(ちゅうじょ)といわれる部品が付いていました。この榴弾砲には「弾性架尾駐鋤」といわれる強力なコイルスプリングがありました。そのバネが縮むことで反動を殺していたのです。

 明治31年式にはその単箭にシリンダーが埋め込まれていました。その中には皿型の重ねられたバネがあり、弾が発射されると単箭の両脇のフックにひっかけられたワイヤーがバネを圧縮します。ワイヤーは巻き取り機(キャプスタン)に巻き取られ、砲車は80センチ余り後退したところで停まりました。復坐はこの反対です。バネの反発力でフックは戻ります。

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。