陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(56)自衛隊砲兵史(2)

□新たな「軍隊」への眼差し

 予備隊への応募者は日を追うごとに増えました。採用試験も順調で、身体検査と面接のみで学科試験はなかったと体験者の話が残っています。応募者の総数は38万2000人、採用予定は7万5000人、そうして最終入隊者は7万4768人というわけで、合格率は約20%でした。
 

 もっとも志願者の中には、当時の共産党幹部や反政府団体の指令によって潜入しようとした工作員も多かったので、国家警察本部も慎重に調査をしたようです。このあたりが戦後史を語る時の難しさで、武力革命を考えていた人たちは確かにいたし、マスコミ界や学界の主流でもありました。そういう勢力にとっては警察力など敵そのものですから公然と批判し、さまざまな妨害も行なったのです。

 その流れを引く人も、いまだにマスコミや学界、労働組合や教員界にもおります。そのために、大きな声であの時代の事実を語れなくなっています。

▼公職追放

 しかも、当時は「公職追放」がありました。簡単にいえば、戦前、戦中に軍国主義を推進したとされた人たちは公共的職務には就けなかったのです。この政策はGHQが行なったものですが、敗者から懲罰として職を奪うということはわが国の伝統にはありませんでした。どうやらそれは、南北戦争の経験が大きかったと百瀬孝氏は言われています。南北戦争では多くの追放が敗者の南部では行なわれたそうです。公職追放はアメリカの文化的所産でもあったといわれます。

 特別高等警察罷免・教職追放・公職追放・地方公職就任禁止・財閥役員追放・労働パージ・レッドパージなどが行なわれました。主に思想犯を捜査対象とした特別高等警察官は約6000人が一斉に罷免され、司法・警察関係への再就職も禁止されます。教職追放は「教職不適格者」と認定されると罷免され2度と教職に就けなくなりました。追放決定者は3338人、これに2717人が加わり、他の事情もあり合計で約11万6000人が教育界を去りました。

 公職追放は範囲が広いものでした。「好ましくない人物」とされると、勅任官、特殊会社役員を公職とし、中央官庁・地方機関・府県庁・政府関係会社協会などを政府機関としてそこから永久に追放するとします。さらに追放該当者としてリストがありました。

 その中には「現役陸海軍将校又は特別志願予備将校軍人」が含まれています。この特別志願予備将校というのは、元々予備役将校だった方が服役中に人事上で現役扱いを受けるために志願した人たちでした。軍隊には「現役将校限定の補職」があり、進級などでも予備役のままであると不利だったので敢えて現役扱いを受けられるよう志願し、教育を受けた人たちです。

 そのために、新しく入隊を志願した人たちの中には現役将校はおりませんでした。むしろ積極的に排除したというのが事実です。だから、旧軍の在籍者でも現役下士官はおりましたが、尉官級では幹部候補生出身者しかいませんでした。

▼初期の混乱

 予備隊の編制や訓練はアメリカ式でした。警備局警備課長だった後藤田正晴氏は米軍から渡された歩兵師団の編成表を見た驚きを語っています。違っていたのは米軍なら戦車連隊だったのが大隊だったくらいで、後は米軍野戦師団そのものだったそうです。中でもフローズン・カンパニー、直訳すれば冷凍中隊があった、戦死者の死体を冷凍保存する中隊だったそうで、それはさすがにおかしいだろうと返上したといいます。

 第5代の陸上幕僚長を務めた大森寛という方がいました。1907(明治40)年に生まれ、1930(昭和5)年に東京帝大法学部卒、内務省に入り、戦時中は海軍司政官、敗戦時には千葉県警察部長でした。全国の警察部長や特高の追放で、警察を出されてしまいます。弁護士を開業しますが、予備隊発足にあたり復帰しました。

 総隊総監林敬三氏と第1管区総監は大学の1期上、2管区総監は同期、4管区総監は2年先輩で、大森さんは警察監補(現在の陸将補)に任じられ3区総監を命じられます。このように、初期の予備隊高級幹部には軍人はいっさいおりませんでした。主に内務省系統の警察官ばかり、しかも現場とは関係がない官僚たちばかりだったのです。

▼予備隊の編制

 総隊総監部の下に全国に4個管区隊、各管区隊は3個連隊が基幹となっています。第1管区隊は東京都越中島駐屯地が総監部で、第1連隊が神奈川県久里浜、同2連隊は長野県松本、同3連隊は新潟県高田に駐屯しました。第2管区隊は札幌市真駒内に総監部、第4連隊が遠軽町、同5連隊は石川県金沢市、同6連隊が栃木県宇都宮市に展開。第3管区隊は総監部が京都府宇治市、第7連隊は京都府舞鶴市、同8連隊が広島県広島市海田市、同9連隊は香川県善通寺市におかれました。第4管区隊は総監部が福岡市、第10連隊は福岡市に、同11連隊は山口県小月市、同12連隊は鹿児島県鹿屋市に駐屯します。

 当時、1個連隊は3個大隊、1個大隊は4個中隊、合計で12個中隊と第13中隊が重迫撃砲中隊、第14中隊は戦車中隊(当時は特車)でした(1950年12月、「予備隊に編成に関する規定」)。火砲を装備する特科連隊は規定では各管区隊に1個連隊となりました。

 準備は着々となされます。1951(昭和26)年3月には追放が解除された陸士58期生や同期相当の若手将校たちが入隊します。同8月には佐官クラスが加わりました。11月には千葉県習志野市に特科学校が生まれます。第1管区隊には第61連隊、同2管区隊には第62連隊、同3管区隊には第63連隊、同4管区隊には第64連隊が置かれました。

▼予備隊の階級

 警察官らしい階級名に特徴がありました。まず現在の陸士は、2等警査(巡査の査)、1等警査、警査長、陸曹は3等警察士補、2等同、1等同でした。准士官にあたる准尉はありません。幹部が2等警察士(後の2尉)、1等警察士(1尉)、警察士長(3佐)、2等警察正(2佐)、1等警察正(1佐)です。3尉相当の階級はありませんでした。将官相当は警察監補(陸将補)と警察監(陸将)です。

 軍隊ではないということから旧軍の兵科名は使えません。しかし、工兵・エンジニアは「施設」とし、輜重は「輸送」となり、通信や衛生などと戦闘支援職種や後方支援職種は変えやすかったのです。問題は、歩兵・騎兵・戦車兵・砲兵といった戦闘兵科でした。絶対に軍隊であってはなりません。行軍だって、行進と変えたくらいです。言い換えが難しかったのでしょう、歩兵は「普通科」、砲兵は「特科」とし、戦車は特車と言い換えました。

 お気づきになった方もおられましょうが、現在は第1普通科連隊といいます。ナンバーの次に職種をつけています。それが発足時にはただの第1連隊、それが普通科第1連隊となり、現在は第1普通科連隊となっているのです。英訳名はどれも、「ザ・ファースト・インファントリー・レジメント」なのですが。

 次回は、保安隊への変更と陸上自衛隊の発足をお話します。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。