陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(55)自衛隊砲兵史(1)
□はじめに
たまたまテレビでTBSの長寿番組「サンデーモーニング」の司会者が引退するといった内容が流れています。36年半という長い期間の放送だったそうで、キャスターの関口宏さんは多くの方々から惜しまれながら身を退くという流れです。
わたしなどは、世間とはずいぶん外れていますから、ああ、やっと「進歩的文化人」(もう死語でしょうか)も消えてゆく時代がやってきたかなどと感想をもちました。関口さんやコメンテーターは、いつも政権の現実対応にケチをつけ、「ねばならない」とか、「かくあるべき」とかしか言いません。
まるで「高尚な理想のためには国民は死んでも良い」というような言説を流し、高みに立った物言いが特徴だと思います。
そうした意見や、ものの見方はどこから始まったのか。自衛隊史を読み直してみるとさまざまなことが見えてきます。今回は発足の時代について雑談風に書いてみたいと思います。
▼北朝鮮の武力侵攻
朝鮮戦争(1950~53年)については、どなたもよくご存知でしょう。簡単にまとめますが、1950(昭和25)年6月25日の未明、北朝鮮軍600門の火砲が38度線を越えて、韓国軍陣地に砲撃を始めます。5方面からソ連製のT34戦車を中心に10個師団の北鮮軍が侵攻しました。T34戦車は約340輌、空軍もヤク戦闘機や戦闘爆撃機など180機が用意されていたようです。
これに対して韓国軍には戦車はなく、非武装の軽飛行機が24機と比較にもなりません。師団の数も8個師団と拮抗しますが、その中身はろくに定員も満たしていなかったし、火砲も不足だったといわれています。4個師団は2個歩兵連隊が基幹であり、火砲も105ミリ榴弾砲が最大でした。弾薬の備蓄も数日分しかなく、それに加えて、侵攻前から潜入していた北鮮工作員が、交通、通信施設などを破壊し、韓国軍の行動を妨害しました。開戦3日目で首都ソウルは陥落し、韓国軍は南へ敗走します。米軍は前年の6月末までに韓国から本国へ帰還していました。
米大統領トルーマンはただちに海空軍に韓国軍支援を命じました。ソウルが陥落した28日には日本占領軍総司令官のマッカーサーが戦況を視察するために前線へ飛びます。回顧録や周囲の記録によると、10年前のダンケルクの戦いが目の前に甦ったそうです。ドイツ機甲師団の快進撃で、英国軍はフランスのダンケルクから海に追い落とされ、多くの悲劇がありました。
ただちに陸上兵力を送らねばならない。そう考えたマッカーサーは大統領から同意は得たものの、米国本土からの来援は時間がかかりすぎます。そこで、当時、九州にあった第24師団を投入します。続いて関西にいた第25師団、関東の第1騎兵師団、最後には北海道、東北の第7師団も韓国に送りました。
▼警察予備隊の発足
そこでマッカーサーは「ポツダム政令」の形で、わが政府の吉田茂総理に国家警察予備隊7万5000人の創設を命じました。これが4個管区隊(のちに師団になる)になった警察予備隊の発足です。
いろいろな政治、経済史の専門家が経緯については詳しく書かれていますが、国内の治安対策が主、朝鮮への派兵が従とわたしは考えています。というのも、第1管区隊は東京、第2管区隊が札幌、第3管区隊は伊丹、第4管区隊は福岡に各総監部が置かれ、いずれも労働運動などが盛んだったところばかりです。
「不戦の誓い」を明らかにした、いまもそこそこの支持がある「憲法第9条」が存在します。兵力をもつ、どう考えても矛盾なのですが、連合国総司令官の命令「ポツダム政令」には逆らうことはできませんでした。
その矛盾については米軍関係者の証言があります。総司令部民事部別室の参謀長だったコワルスキー大佐は回顧録で「兵器も小火器も戦車も火砲も航空機も、すべて戦力ではないという大嘘」という書き方です。
1950(昭和25)年8月、隊員募集のポスターが、駅や列車内、公共の掲示板に貼りだされます。内容はといえば、隊員は特別職の国家公務員、手当は月5000円程度、努力次第で幹部になれる、勤務年限は2年で6万円の退職手当が出る、被服・食事はすべて支給、応募可能年齢は満20歳以上、満35歳未満、ただし満18歳以上、20歳未満の者でも高等学校卒業者で保護者の同意書がある者、身長は1.56メートル以上、裸眼視力0.3以上でした。
月給5000円は最後には4500円になりましたが、国家・自治体警察の巡査の初任給が3772円でしたから約1.3倍になり、しかも衣食住つきですから、戦後の混乱がまだ続いた時代には、ずいぶん優遇されたと言って良いでしょう。
▼侵攻したのは米・韓国軍だという意見
戦線が膠着状態になった1952(昭和27)年10月に、「平和」増刊号が出ました。特集として「朝鮮戦争の真相」が組まれています。それによると戦争の発端はアメリカの命令で韓国軍が北侵したそうです。
うがった陰謀論はまだ続きます。開戦前年の米軍の撤収は、「占領軍の撤退を要求する朝鮮全人民の声に押され、この北鮮攻撃が韓国軍独自の行動であることをよそおうため」とされていました。
このときのマスコミや言論界の「進歩的知識人」は大活躍でした。ある東大教授は雑誌「世界」1952年9月号(岩波書店)で「国際政治の怪物が人類の前途にたちふさがっている」と開戦日の秘話(としたいもの)を紹介します。ある陰謀論の提唱者の著作からとったものです。
現在から見れば、それこそ噴飯もののデマですが、自分の主張に都合が良いものなら何でも使うといった今も同じマスコミ系文化人の常とう手段です。もちろん、北鮮の平壌放送は開戦当初から韓国軍の侵攻を宣伝しています。アメリカ帝国主義による、アメリカの兵器産業が悪徳政治家たちと組んだ侵略戦争だと非難していました。
でも、軍事常識からいえば、どうにもおかしいことばかりです。奇襲を受けても混乱もせずに、米軍の介入もはね返して釜山橋頭堡の一角にまで追い詰めるほどの戦闘力を発揮する、それはちょっとというのが常識でしょう。ところが、「人民の怒りや正義への思い」があれば、そんな不思議なことが可能なのが「進歩的文化人」の信念であり、主張の根拠でもありました。
彼らはのちにベトナム戦争(1961~76年)でも同じようなことを言い続けます。「愛国心と正義に燃えた人民」がアメリカ帝国主義を撃ち破るのです。次回は警察予備隊か保安隊への改編についてふり返ってみます。
(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。