陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(54)最後の量産された火砲

□はじめに

 陸自の西方への備えは着々と進んでいます。第7地対艦ミサイル連隊が編成完結を迎えました。装備する12式地対艦ミサイルは、1991(平成3)年から保有された88式地対艦ミサイルの後継です。射程は「百数十キロメートル」と「自衛隊装備年鑑」には公表されていますが、実際は300キロともいわれています。

 もともと6個連隊(各4個射撃中隊)あったものが1個減り、今回その欠番(第6連隊)をそのままに、第7地対艦ミサイル連隊となりました。沖縄県の島々に中隊ごとに配置され、統一指揮をとる本部が那覇に置かれて、北方に3個、東北方に1個、西方に2個の6個連隊体制になります。

 12式地対艦ミサイルは野戦特科に所属しますが、砲身のある火砲とは異なり、ユニークな存在です。わが国に接近する敵艦船に攻撃を行ないます。山地に設けた洞窟陣地に発射機や指令機関を隠しておいて、沿岸に置いた監視システムが目標を通知します。ミサイルは地上では事前にプログラムされた飛行経路をとって海上に出ます。ジェットエンジンで低高度を進み、敵のレーダー探知をかわし、防禦能力の低い輸送船などを襲うのです。そのときには目標の上空近くで急上昇し、突入します。

 この地対艦ミサイルの能力向上型が開発されているようです。また、これまで2個連隊だった水陸機動団に新しく1個連隊が加わり、兵力の増強がされています。西方に睨みをきかせる動きです。陸自は着実に抑止力としての存在を強めています。

▼機械化牽引の榴弾砲

 1926(大正15)年には、いよいよ装軌(クローラー)牽引車によって曳かれる野戦榴弾砲の開発が始まります。要求された性能は口径が15糎、射程1万2000メートル、自動車牽引だから重くなるのは仕方がないとされました。四駢(よんべん・8頭のこと)もしくは自動車牽引ということになります。

 火砲は重量が4トンにもなりました。少しでも重量を軽くするために砲身は自己緊搾式単肉としますが、やはり長射程を考えると砲架も揺架も強度を持たせ、重量が増えるのは仕方がありませんでした。馬は8頭を使っても軽快に運動などできません。そこで、自動車牽引の専用火砲とします。

 1933(昭和8)年末に設計を始め、翌々年の35年9月に試製砲が完成しました。野戦砲兵学校の実用試験でも合格、冬季北満試験でも良好な結果を出します。部隊編成実用試験を行ない、1938(昭和13)年5月に仮制式を制定されました。この時代のずっと前から兵器はすべて厳寒の北満洲で各種試験を行ないます。まさに陸軍の対ソ連戦の姿勢がうかがわれる話です。

また、野戦火砲は必ず中隊規模の部隊編成で実用試験を行ないます。野戦火砲は単独で行動することはなく、移動、陣地進入、展開、射撃準備、射撃情報収集、射撃指揮、観測、通信なども部隊単位です。そこで、部隊編成で実際に試験を行ないました。

▼支那事変の勃発と投入

 1937(昭和12)年7月、支那事変が勃発します。すでに完成していた8門の本砲は北支に送られました。射程は大きく伸び、新しく開発した弾重40キロの弾が好評でした。炸薬量も多く、爆発威力も大きかったのです。

 こうしたことは素人には分かりにくいのですが、10糎(105ミリ)級の弾は重量が16キロほどでした。それが15糎になると40キロです。戦後の火砲である陸自の使ったM2A1・105ミリ榴弾砲の弾の有効範囲が20×30メートルでした。それが155ミリ榴弾砲では同じく45×30メートルにもなります。この有効範囲とは、その範囲にある活目標、つまり人馬が50%以上死傷するという意味です。

 さらに工兵の記録を読むと、「ベテラン兵士は塹壕などにある限り10糎級では慣れることができるし、直撃さえしなければ安心・安全である。ところが15糎クラスでは、その飛翔音、爆発音、さらには近距離の着弾でも、衝撃波や衝撃で塹壕の壁は崩れ、生き埋めになる仲間も出て来る」などと、15糎クラスの恐ろしさが語られます。

 また、大東亜戦争の末期には、15糎榴弾砲の被害にあったアメリカ軍戦車の状況も報告されます。直撃はもちろん戦車そのものを破壊し、車輌の至近に着弾しても、その衝撃波でエンジンが破壊されてしまう。15Hの正面には出ないようにということです。

 野戦重砲兵第1聯隊が装備火砲を、これまでの4年式15榴から96式に替えたのは1938(昭和13)年12月のことでした。翌14年6月にノモンハン事変に動員下令されました。2個大隊4個中隊16門が出動します。陸軍始まって以来、発の対ソ連砲兵戦闘でした。脚が壊れた、塞環(そくかん)が砂で融けて琺瑯になってしまい連続発射ができなかったなどの悪評も残していますが、やはり長射程による火制効果は高く、貴重な存在でした。

 総生産量は約440門でしたが、敗戦時まで生産を続けました。こうした重砲が意外なほど生産が少なかった背景には、やはり航空への傾斜が大きかったということが挙げられるでしょう。次回は同時期の新型火砲についてお話します。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。