陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(53)軍馬のお話
□季節のご挨拶
一気に春めいて参りました。わが家の近所のお宅の白木蓮が満開で、そろそろ花が散りそうです。いつも道に落ちてしまい、おうちの方がよく掃いておられます。菜の花も開いて、チューリップの芽も出てきました。
それにしても明るい話題は北陸新幹線、しかし、その裏にはいまだに避難所生活の方々もたくさんおられます。陸上自衛官の友人は野外用のお風呂の支援に行き、まだまだ帰れないと語っていました。被災された方々に心より、お見舞いを申し上げます。
▼機械化砲兵始まる
前車と砲車を合わせて2トン未満、これが軽快な機動力を要求された野砲の重量でした。野砲は6頭の馬に牽かれて生地を走らねばなりません。その馬が、わが国では難物です。軍馬は必要なだけ徴発すればよいと思いますが、訓練された軍馬は稀少性がありました。平時保管馬という日常の訓練に使う馬は、戦時動員でやってくる馬と違います。幼いころから軍隊で訓練され、重い輓曳具や駄載具をつけて歩く訓練をしていました。
銃声や砲声を聞いても驚かず、我慢強く、担当の兵にもよく懐いたそうです。ところが、多くの民間馬はそうはいきません。記録を見ると、大人しく整列ができない、将校が抜刀すると、その白刃の輝きに驚いてしまうといった実態が書かれています。何が原因か分からないが走りだして、兵隊を傷つけてしまったという例も珍しくありません。
火砲が重くなると、もう馬ではだめだという声もあがり、欧米と同じように自動車牽引をしようという研究が始まります。14年式10糎加農が始まりです。それまでの38式10糎加農の更新用に、1923(大正12)年に竣工した野戦重砲でした。放列砲車重量が3115キログラムですから、とても馬6頭では動かせません。
▼自動車牽引10糎加農
この砲は開脚式です。移動するときは脚を閉じて1本にして牽引車に付けました。その開脚の特許が大正14年まで有効だったので14年式となったのです。そのとき、反対意見が出ました。自動車、しかも装軌の牽引車なんて金がかかるだろうというものでした。それはもっともです。ろくに国産自動車も走っていない国ですから車輌の値段もともかく、保守・点検・維持にも金がかかって当然でした。そこで経理部将校が登場です。1個重砲兵聯隊の馬の数を出しました。4頭ずつが2組で1門の火砲を牽きます。聯隊全部で36門あるので288頭、砲1門に2台の弾薬車がつくので各6頭ずつで216頭、予備品車やその他で輓馬が300頭に駄馬が120頭、予備馬は考えずに合計で900頭あまりです。実際はこれに乗馬がありますから、聯隊の飼育する馬はもっと多い。年間で1000頭の馬が生きる・・・となると、食費と管理費と蹄鉄費などで1頭あたりざっと200円だったそうです。20万円でした。
トラクターもなかなかの値段で、アメリカ製ホルト社のそれが1台3000円したとか。でも馬も1頭で育成馬なら100~150円したそうなので1000頭で10万円から15万円ほどです。ホルトのトラクターなら予備も入れて40台で12万円。その他、なんだかんだで20万円でお釣りが来る。馬ほど食べないし(燃料費は安い)、病気にもかからない、何より調教の手間がかからない。なんだ、けっこう経済的じゃないかということになりました。
▼馬の世話は大変だった
手元にある陸軍経理学校の書類によると給水規定がありました。1日単位です。人は炊事用と湯茶で25リットル、洗濯や雑用で15リットル、入浴に20リットル、合計60リットルでした。馬は飲用として44リットル、雑用に12リットルの合計56リットル。これが熱地(暑いところ)に行くと、馬は飲料として50リットル、洗浄用で54リットルになりました。汗をかいたままでは馬は病気になります。水浴びが必要なのです。
馬糧も大変でした。輓馬・駄馬には燕麦と大麦を5250グラム、圧搾馬糧5300グラム、干草4000グラム、藁3500グラムです。合計で18キロ50グラムになります。圧搾馬糧というのは糧秣廠から交付された、内地の製造所から送られてくるものです。もちろん輸送が不調である、あるいは入手できないときは「換給」といって、別の物で代用しても良い・・・とありますが、これにも限度があって混ぜても良い割合が決まっています。
馬が病気だなどと届けると獣医部将校から取り扱いについて厳しく指導されたそうです。とりわけ代用にした馬糧の種類と量についてうるさかったと言います。輸送中の支給もうるさく言われます。貨車などで鉄道輸送されるとき、燕麦か大麦を2630グラム食べさせますが、これを圧搾馬糧2630グラムにして良い。切り藁を800グラム、干し草を6000グラム、そうして食塩を40グラム与えました。飲料水は20~30リットルです。
次回は96式15糎榴弾砲について詳しく述べましょう。
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。