陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(10) フランス、ドイツ混成時代

▼明治初めの建軍時代

 近代的な陸海軍をつくらねばならない。そのためには装備だ、人だとなるのはいまも少しも変わりません。1868(明治元)年8月には京都に兵学校(所)が開かれました。翌年9月から11月には大坂城内に移転します。これが大坂兵学寮といわれ、同時に8月から京都の河東に「仏式伝習所」ともいわれた河東操練所も教育を始めます。

この頃は、のちの上等士官、下等士官それぞれの教育課程があったわけではありません。とにかくフランス式の軍事知識も一般教養も教える。体育訓練も行なうといったようでした。気づかれたかと思いますが、上等士官の上等はなくなり、下等士官は「下士」、もしくは「下士官」という言葉の由来だと思います。

この河東操練所が1870(明治3)年4月に大坂城内に移転して「教導隊」になりました。また、徳川幕府が幕末から横浜に開いていた「語学校」が1869(明治2)年5月から兵部省の管轄下にありました。これの教材や、教官、生徒を70年5月から大坂に動かして兵学寮の「幼年学舎」とします。

当然、「青年学舎」もあったのですが、これは実年齢で分けたのではなく、志願者をその経験や学力で分けました。簡単にいえば、速成で士官をつくるのが青年学舎であり、フランス語はじめ語学や一般教養を重視する、じっくり育てようというのが幼年学舎でした。

青年学舎生徒を経て、のちに日露戦争で師団長になった井上光(いのうえ・ひかる)大将の例をひくと、1851(嘉永4)年に岩国藩士の家に生まれます。戊辰戦争に藩軍に参加、青年学舎を卒業し、1871(明治4)年に歩兵大尉になりました。1877年の西南戦争では少佐に進んでいて別働第1旅団の大隊長として出征します。

対して、大久保春野(おおくぼ・はるの)大将は幼年学舎生徒出身です。静岡県の神官の長男として1846(弘化3)年に生まれます。戊辰戦争で官軍が江戸へ進撃途中に合流した「報国隊」に参加し、1870年に幼年学舎で学び、その後に5年にわたってフランスに留学し、帰国後に陸軍省7等出仕、77年4月に少佐任官。中佐への進級は井上光と同時に85年5月でした。

河東操練所の出身で有名人は、寺内正毅(てらうち・まさたか、1852~1919年)元帥陸軍大将です。長州藩足軽格という低い身分からスタートします。1869年7月から河東へ、翌70年6月に7等下士官、同12月に歩兵軍曹となり、71年1月に権曹長(ごんのそうちょう)となりました。

同8月に少尉、同11月に中尉、72年大尉に進級、西南戦争には近衛歩兵聯隊の中隊長として出征、右手に負傷し、79年少佐に進み、82年からフランスに留学し、公使館付となり84年中佐に進級、86年に帰国しました。

このように世代や出身で建軍時代はさまざまな軍歴からスタートしています。

▼陸軍は仏式、海軍は英式が決まる

 1870(明治3)年10月2日です。政府は海軍については英式、陸軍は仏式という決定を行ない各藩に通達します。11月には大阪兵学寮を陸軍兵学寮と改称し、青年学舎と幼年学舎を並立しました。志願する青年たちの学習歴や戦歴をみて、ふさわしい学舎に採用するということです。

 その教官たちは幕府時代から引き続きフランス軍人や、幕府時代の通訳官、さらには静岡県沼津に開校していた徳川家の兵学校からも採用します。とにかくフランス軍の最新の操典や、各種の軍事に関する文献の翻訳が最初でした。

 廃藩置県(1871年)7月というのは、単に行政上の改革ではありません。同時に各藩軍の武装解除、解散、再編をともないます(8月には各藩軍の廃止)。そうしたことを行なうには、本来強大な軍事力がなくてはなりませんでした。歴史教科書の記述を見れば鹿児島・山口・高知の3藩による「御親兵」の編成(同年2月)は廃藩置県のためのものとあります。そうして事実、中央政府直属の軍事力である御親兵は3藩から献上された兵力でした。

 しかし、ここで疑問が起こります。この中央政府直属の軍隊ができる前から、陸は仏式、海は英式と全国に布告したことです。まだ、政府には軍事力がない、それなのに軍の制式を決めて布告したという背景には何があったのでしょうか。

▼仏式か英式か

 「用兵」とは「兵を動かすこと」、あるいは「動かし方」のことです。装備や教育体系にも大きな影響を及ぼします。フランスの用兵思想も幕末から輸入されたとみて間違いはありません。

 海軍の英国式はまあ、納得できる話です。当時、大英帝国の威信は海上貿易で支えられ、それを守る英国海軍は質量ともに世界一でした。ただし、陸軍が模範とする外国軍は英・仏2カ国が候補にあがっていました。近代陸軍の生みの親といえば、大村益次郎(おおむら・ますじろう、1825~1869年)ですが、彼と弟子たちはフランス式を提唱します。反対派はイギリス式をすでに採用していた鹿児島藩勢力でした。代表は大久保利通(おおくぼ・としみち、1830~1878年)です。

 最後は大村派が勝利を収めるのですが、その理由は明らかにはなりません。とにかく二転三転するといったことがあります。まずフランス顧問団を招くといった提案がされました。フランス公使に話を通すのが1870年4月です。9月にはほぼフランス式採用が内定しました。

 ところがこの7月19日(わが国では明治3年6月21日)にフランスとプロシャは戦争となります。普仏戦争として知られる大きな戦いでした。フランス公使に教師の雇い入れの斡旋を申し入れてから、わずか2カ月後に戦争が始まり、9月2日にはナポレオン3世はセダンで全軍を率いてプロシャ軍に降伏するといった事態になってしまいます。

 そのさなかに2人の重要人物が帰国しました。8月2日、山縣有朋と西郷従道が兵制調査を終えてきたのです。すぐに2人は重職に任じられます。山縣は兵部少輔(ひょうぶのしょう)に、西郷は同大丞(だいじょう)になりました。当時は兵部省の長官は「卿(きょう)」の嘉彰親王がいわばお飾りで、大輔(たゆう)は欠員(前原一誠が辞職)でしたから山縣が最先任、西郷がその下となったのです。

 山縣はすでに両軍士官の質を比較し、プロシャ軍が優秀であると見ていたようです。また、8月末に調査出張を命じられていた大山巌もフランス軍の様子を見て失望し、装備についても優劣を語っています。プロシャの鋼製後装砲が、フランスの青銅前装砲よりも性能的に勝っているとも報告しているようです。

 それなのに、どうしてフランス式が採用されたのでしょうか。ますます興味が湧いてきます。今回も『陸軍創設史-フランス軍事顧問団の影』(篠原宏)の労作を参照しました。

 

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。