陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(59) 自衛隊砲兵史(5)管区隊から師団へ

▼管区隊と混成団

陸上自衛隊の発足に合わせて北海道に第5管区隊(総監部・帯広)と第6管区隊(総監部・福島県福島から宮城県多賀城、続いて山形県神町に移転)が生まれます。北海道の北部方面隊は第2、第5の2個管区隊となり、東北6県の警備担任はそれまでの第1管区隊から第6管区隊へ移されます。

 これ以後、管区隊よりは小さく、機動運用を目的とした混成団の新編が行なわれました。1955(昭和30)年には第7(千歳)、第8(熊本)、翌年には第9(青森)の各混成団が生まれます。また九州の第8混成団編成完結にともなって第4管区隊(福岡)を合わせて指揮するために西部方面総監部(熊本)が発足しました。

 この最初の頃の混成団の編成があります。本部には本部と本部中隊があり、隷下に1個普通科連隊、特科連隊、施設大隊、偵察、武器、通信、補給、輸送、衛生の各中隊と航空隊がありました。普通科連隊は本部・本部中隊と管理中隊、4個普通科大隊、重迫撃中隊に特車(戦車)中隊と衛生中隊です。特科連隊は本部・本部中隊と105ミリ榴弾砲1個大隊と155ミリ同の1個大隊、それに高射自動火器の1個大隊でした。

▼方面管区制がしかれる

 自衛隊には、まだ典範類がありませんでした。操典や教範といった教材です。アメリカ軍のそれらを翻訳して使っていました。つまり実体にそぐわないことも多くあったのです。1957(昭和32)年には、ようやく「野外令(草案)」が配布され、普通科、特科、機甲科などの国産教範類ができあがります。しかし、この「野外令」そのものが米軍のマニュアルを元にしていました。

 同時に1958(昭和33)年から1次防といわれる「第1次防衛力整備計画」が始まり、定員の増加によって第10混成団(名古屋)、第1空挺団、第1ヘリコプター団の新編が行なわれます。国産戦車、装甲車(装甲兵員輸送車)、自走砲などの研究開発も始まりました。

 そうして1960(昭和35)年1月には、方面管区制がしかれ、現在と同じ、北部、東北、東部、中部、西部の5個方面隊が生まれます。英語ではARMYとなるわけで、昔ならナンバー軍にあたるでしょう。北部は2個管区隊、1個混成団、東北、中部、西部はそれぞれ1個管区隊と1個混成団であり、東部だけが第1管区隊1個でした。

 こうしてようやく、アメリカ式装備でアメリカ軍のような教育・訓練を受けた武装組織から新たな「国軍」に向けての態勢がスタートしたといってよいでしょう。

▼盛んだった上陸演習

 1950年代後半から1960年代にかけて、第1から第4管区隊までの部隊は海上機動、上陸演習をよく行なっていたと陸自OBから聞きました。たしかに、配備された地域から他方面への増援は海上機動が当然である、そういわれれば納得ですが、どうもそればかりではなかったと思われます。

 というのも時期は少し後になりますが、1963(昭和38)年に野党の追及で大きな問題になった「三矢(みつや)研究」という自衛隊の統合防衛図上研究がありました。この研究は朝鮮半島有事を想定して極秘に研究されたものでした。そこでは、樺太や千島列島などに限定した保障占領をすることの可能性も否定していなかったのです。当時はアメリカ軍との共同作戦を視野に入れ、領域外にも出動するといった、きわめて現実的な想定でもありました。

 なお、管区隊を地域張り付けの運用とするなら、混成団は機動運用を主として、そのために機械化する構想があったのです。ところが予算の制約があって、実際に機械化できたのは1961(昭和36)年に創設された第7混成団だけでした。それがいまも機甲師団といわれる第7師団の母体となりました。

▼管区隊が師団になる

 1962(昭和37)年には、第11から第13までの3個師団が新編されます。これまでの管区隊、混成団が改編・称号変更がされて13個師団体制が完成しました。この師団改編で最も大きな変化は、普通科連隊から大隊がなくなったことです。連隊-大隊-中隊といった指揮結節が、連隊-中隊となりました。人員規模も2400名から1200名と半分になったのです。

 師団も2種類になりました。甲・乙といった区別があります。師団の編制を見てみましょう。甲師団(定員9000名)は普通科連隊4個を基幹としました。本部管理中隊が1個、その他に4個のナンバー中隊といわれる普通科中隊、重迫撃中隊で成っています。普通科中隊は中隊本部と小銃小隊4個、迫撃砲小隊に無反動砲小隊です。

 特科連隊は105ミリ榴弾砲大隊が4個、155ミリ同が1個、それに高射特科大隊という編制でした。この他に4個中隊の戦車中隊があり、対戦車隊、偵察隊、施設大隊、通信大隊、武器隊、補給隊、輸送隊と音楽隊というものです。

 小型化した師団には供与兵器に代わって、61式戦車、60式装甲車、64式小銃などといった国産兵器が配備されるようになりました。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。