陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(60)自衛隊砲兵史(6)2次防から3次防へ

▼「昔は駄目だった」への反発

1962(昭和37)年といえば、東京オリンピックの開催、東海道新幹線の建設などが軌道に乗っていた頃です。社会の様子もすっかり現在の様子の原型ができあがってきました。

前年には私立大学の文学部が女子学生に占領され花嫁学校化していると、早稲田大学の教授が発言し、「女子学生亡国論」論争が起きます。戦中に生まれた女性たちが両親の経済力上昇を背景にして大学に、短大どころか4年制大学に進んでいました。また、工業国家化で技術者養成のための工業高等専門学校(6年制)が発足します。国立が12校、公立2校、私立5校でした。

農業人口は全労働力の3割を切ります。また、東京の人口が推計で1000万人を超えました。世界で初めての1000万人都市になります。また、防衛庁からは各省庁次官会議で学校教育への要望書を出しました。愛国心・国防意識の高揚を強調しますが、社会党、共産党、日教組などが「いつか来た道」と大合唱。

技術史では目立ったところで、世界最大のタンカー(油槽船)日章丸(佐世保重工・排水量13万トン)が進水、戦後初の国産旅客機YS-11が試験飛行に成功、国内最長の鉄道トンネル「北陸トンネル」が開通する、首都高速1号線(大都市内ハイウェイ)も京橋-芝浦間の開業などがありました。

もう一つ、当時の少年たちの流行です。プラモデルのブームが始まります。ゼロ戦や戦艦大和、鉄人28号などが人気でした。あの戦争は物量に負けた、技術的には負けていないという言い分が湧きおこりました。まあ、戦後のあまりにひどかった「昔は駄目だった」への反発があったのでしょう。

▼3次防とは?

 1964(昭和39)年の東京オリンピックは大成功裡に終わり、世の中は高度経済成長の真っ盛りでした。2次防の目玉だった13個師団体制も完了し、国産装備も増えてきます。1967(昭和42)年から72(昭和47)年にかけての第3次防衛力整備計画に移行しました。

 わが国が整備すべき防衛力は、通常兵器による局地戦以下の侵略事態に対して最も有効に対処できるものとされました。機動力や防空能力の向上に努める方針でした。装備面ではのちに73式装甲車、74式戦車となる新装甲車・新戦車の研究も始まります。

 師団の強化も図られました。前にも述べたとおり、師団には3種類がありました。まず、普通科連隊4個を中心として、その単位数に合わせた特科(5個大隊)や戦車大隊(4個中隊)やその他部隊からなる定員約9000名の甲師団、3個普通科連隊を基幹とし、それに合わせた単位部隊をもつ定員約7000名の乙師団、そして機械化率の高い第7師団です。

 師団が生まれたとき、第1、2、4、11の4個だけが甲師団でしたが、3次防の間に第3、6、13師団が甲師団になりました。しかし、その後に四国善通寺の第2混成団が新編されると第13師団は乙師団となり、第8師団の甲師団化は1981年と遅れ、第5、9、10、12、13の各師団は乙師団のままでした。

 1968(昭和43)年には、それまでの「野外令(草案)」に代わって、わが国独自の「野外令」が制定されます。翌年には演習対抗部隊として、甲・乙・丙の3つに対しての秘密文書を作成して、訓練の準拠としました。

甲はソ連軍、乙は中国軍、丙は北朝鮮軍を表しています。これまたすぐに「戦争準備だ」などと騒ぐ人がいますが、国家の軍隊が用兵方針を持たずしてどうしましょう。侵攻してくる蓋然性の高い国を想定し、そこに対抗するために計画を立て、相応の対応力をもつ装備をして訓練をしておく、それが当たり前でしょう。

ところで、甲乙丙の順番通りに脅威度が高いとされていたかというと、どうもそうではなかったようです。甲はソ連軍ですから、たしかにその戦力はもっとも高かったでしょう。しかし、もし米ソが戦ったら全世界的な核戦争になってしまう。そうであると、当時でも可能性が高くなる有事はといえば、朝鮮や台湾周辺です。

 そうなったら、具体的には中国が台湾に、北朝鮮が韓国に侵攻したら、陸上自衛隊の5分の3が九州方面へ、5分の1が東京周辺と同じく5分の1が北海道に展開することになっていたようです。

▼特科教導隊へ

 ちょっと時間が戻ります。1961(昭和36)年8月17日、学校編制改編によって、普通科・特科・機甲科の各教導部隊は改編されました。特科教導隊の発足です。第108特科大隊、第301特科中隊、第303観測中隊で新編されました。改編の理由は、富士学校という幹部や陸曹の教育機関であるから、そこに属する教導隊であるということを明確にすることが挙げられています。教導隊とは帝国陸軍にもあった、「教え導く」という性格を表したよい名称だと思います。

 理由のもう1つは、陸自の師団改編化にともなって、教導隊もほぼ同じような編制組織にしようというものでした。編制は本部管理中隊、3個の軽砲(105ミリ榴弾砲)中隊、1個の中砲中隊(155ミリ榴弾砲)、1個の重砲中隊(203ミリ榴弾砲)と第303観測中隊でした。

 1967(昭和42)年には105ミリ自走榴弾砲(供与品)、同じく米国から供与された155ミリ自走榴弾砲と、30型ロケットが装備されます。

 次回は師団特科隊について調べた結果をご紹介します。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。