陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(61) 自衛隊砲兵史(7)3次防から4次防へ

□お礼

 GIさま、高等工業専門学校の記事から陸上自衛隊施設科の民生協力のお話を出して下さいました。まさに学校数も一致しますし、学校用地の整備などに陸自施設が技術・労力を提供していた話、とても貴重なことだと思います。いま、陸上自衛隊史をたどっていますが、今後ともよろしくお願いいたします。

▼ミグが突然やってきた

1973(昭和48)年から第4次防衛力整備計画が始まります。定員も18万人体制が実現しました。それは1957(昭和32)年からつづく大きな悲願でした。この4次防の大きな改革の1つは、機甲師団をもつということでしたが現実化は遅れました。

この時期になると、アメリカは泥沼化したベトナムから手を引くことになります。東アジア戦略も見直されました。そうした中で、陸自の北方重視が始まります。じっさいのところ、1976(昭和51)年には、わが国の防衛監視システムをかいくぐってソ連戦闘機が函館に強行着陸するといった事件も起きました。

ベテランの自衛隊OBの中でも、当時、若手だった方々からさまざまな秘話を聞くことがあります。低空への監視能力が低かった、戦闘機のルックダウン(下方の監視能力)レーダーが不備だったなどという話の他に、実弾を装備し、ソ連爆撃機を撃墜せよ・・・などという命令が出た(でも、どこからの命令か分からなかった)という秘話を元パイロットが漏らしてくれたこともあります。

 

有名なMIG25事件ですが、米国への亡命を認められた中尉が先年亡くなったという報道がありました。その機体にからんで一触即発の事態だったのかと思います。その機体が問題だったのです。

ミグ25戦闘機はソ連最新鋭要撃戦闘機であり、西側には秘密だらけだったことが問題を大きくしました。ソ連空挺部隊が奪回に来るかも、爆撃機が爆砕しに来るだろうなどと「にわか軍事評論家」がテレビや新聞で騒いでいたことも記憶しています。

陸自の部隊でも高射機関砲に実弾が装填され、普通科部隊は臨戦態勢に入ったなどともいわれていますが、先の空自のファントム・ライダー(F4戦闘機パイロット)の思い出話も裏がきちんと取れる話ではありません。しかし、当時の自衛隊最高指揮官の総理大臣や防衛庁長官、そして国会議員の方々は何をされていたのでしょうか。たしか、情報に振り回されて、ただあたふたとしていたという印象しかありません。

▼北海道侵攻への備え

 当時、ソ連軍の北海道侵攻にはいくつかの可能性が考えられていました。北海道東部ルート、北海道北部ルート、宗谷・津軽の2海峡制圧、東北地方の航空撃滅戦、日本海沿岸への侵攻といったものです。

 北海道北部、東部ルートとはいずれもソ連軍機甲部隊の着上陸侵攻から始まります。とはいえ、ソ連の開戦目的は、日ソの2国間の衝突ではなく米ソ全面戦争の1局面としてソ連太平洋艦隊の行動の自由を確保するといったことでしょう。

 北部ルートは稚内(わっかない)を押さえて上陸した部隊が南下する、同時に陽動作戦として知床(しれとこ)などに部隊を進める、その逆もありえました。つまり北部、東部ルートというのは、どちらを侵攻の主力とするかによって生まれるものです。

 航空撃滅戦は激しいものだったでしょう。空自の基地は千歳にあり、そこには要撃戦闘機が多くあり、東北の八戸にも対地戦闘攻撃機部隊がいました。

▼北方第7機甲師団の発足

 道北を護るのは旭川の第2師団、同じく道東には帯広に第5師団がいて初動体制をとります。津軽海峡は道南を警備地区にする第11師団が防衛を担任しました。あとは戦略機動師団として第7師団、第1特科団(砲兵旅団)、第1戦車団、第1高射特科団などがありましたが、その第7師団は、ソ連軍機械化師団と比べると弱体であることは否定できません。

 1979(昭和54)年、ソ連がアフガンに侵攻します。そら見たことか、アフガンでなかったら北海道だった・・・という気分が世間に起きました。1980年からは84年までの5カ年を対象に「53中業」という中期業務見積が作られるようになります。

 1981年には第1戦車団隷下の第2と第3戦車群と第102装甲輸送隊をもとにして、戦車連隊3個、装甲化普通科連隊1個を基幹とした第7機甲師団が発足しました。機甲師団とは「卓越した機動力と装甲防護能力」という陸自教範「師団」の中に、一般師団とは異なった記述が見られます。

 また対空防御力を強化するために、一般師団では2個中隊を基幹とする高射特科大隊であるのに対して、6個中隊もの高射特科連隊が隷下に生まれました。これが後には87式高射自走機関砲をもつ第7高射特科連隊の始まりです。そして多くの装甲車輌があったために、一般師団には武器隊しかなかったのに、第7師団だけは武器大隊がおかれます。

▼野戦特科連隊

 この頃、一般師団の12個特科連隊には105ミリと155ミリの牽引式榴弾砲がありました。第7師団には105ミリと155ミリの装甲自走榴弾砲が配備されています。

 1976(昭和51)年の特科連隊編制表によりますと、連隊本部と本部中隊、その隷下に甲師団には4個大隊、各大隊は本部管理中隊と本部、2個射撃中隊がありました。105ミリ榴弾砲が32門、155ミリ同が16門、高射機関砲8門、自走同12門です。

 細かく見ると、射撃中隊は戦砲隊(本部と砲班4つ・8門それに弾薬班)、本部中隊、指揮班、管理整備班、2個前進観測班となっています。

▼富士学校砲兵の機能別教育

 訓練砲術班は、砲兵隊の指揮・運用、幕僚活動のうちの大隊以下の実員指揮と関連する事項や、砲術に関する事項の教育を行ないました。実員指揮というのは一般には馴染の無い言葉ですが、いかにも陸上自衛隊らしい言葉の1つです。机上のプランだけではなく、実際の人員を指揮し、動かすための訓練になります。

 軍事を書物などだけで学んだ方々の中には、時として軍事のプロには受け入れられない感想や意見をもつ人がいます。兵器でいえば、カタログ性能を暗記し、そこからすべてが分かった気になってしまう人のことです。

実際のところ、カタログで火砲の発射速度が4発/分とあれば、じゃあ20発は5分で撃てると思ってしまいます。しかし、火砲は人が動かし、火砲の射撃は人が射撃に際して起こる各種の衝撃や影響に耐えながら行なうものです。そこに「実員」が存在します。そこにこそ指揮官が実員指揮を学ぶ必要があります。

 砲術は、射撃指揮、射撃の観測、戦砲隊・操法教育に区分されます。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。