陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(58)自衛隊砲兵史(4)防衛庁・自衛隊の発足

▼「防衛2法」国会で成立

防衛庁が発足します。1954(昭和29)年6月、防衛庁設置法と自衛隊法、いわゆる「防衛2法」が国会で可決成立しました。7月1日には防衛庁と陸・海・空の3自衛隊の新体制がスタートします。

防衛庁設置法によると、これまで保安隊時代の第1(陸上)、第2(海上)幕僚監部に加えて第3(航空)幕僚監部を置きました。また、3幕僚監部を統括する統合幕僚会議を設けます。また、国防についての重要事項を審議する機関として内閣に国防会議を設けました。

自衛隊法は「直接侵略」に対して日本を防衛することを自衛隊の任務とすることを定めます。「防衛出動」の規定を初めて採用し、「原則として国会の承認を得て、内閣総理大臣が出動命令を出す」という手順も明記されました。

これが実に、非現実的な仕組みということはいまでは常識でしょう。目の前に明らかにわが国土への侵攻を企てる敵の勢力が見えても反撃してはならない、撃たれてから初めて隊員個人としての最小限の自衛行動を行なえというのです。いろいろな論者がいました。機関銃で撃たれたら機関銃を撃ち返せ、大砲など使ったら過剰防衛だから犯罪者として逮捕・起訴するなどという刑法学者もいたぐらいです。

のちに勇気ある自衛官が「武力行使をされたら超法規的行動をとらざるを得ない」と決意を語り、これがシビリアンコントロールを無視するとして非難もされました。目の前に攻撃をしてくる的部隊に、撃たれても、施設が焼かれても、国会の承認がなければ反撃してはならないというのです。のちに話題になったマスコミとのやり取りがありました。防衛庁背広組の幹部が「敵に撃たれたら、山にでも逃げていればいい」と発言してしまい大騒ぎになりました。

これらの背景には、アメリカが要求する日本の独自防衛力増強が保安隊の2年間にわたって続いていたことがあります。アメリカはわが国に地上兵力32万5000人体制を要望していました。また、対日援助協定(MSA援助)を結ぶにあたっても、さまざまな水面下の事情がありました。

もちろん国内には左派勢力が大きな力をもち、再軍備、対米従属反対の声は盛大なものでした。「徴兵制が布かれる」、「アメリカの戦争に巻き込まれる」、「アメリカ帝国主義の手先になるな」から始まり自衛隊は違憲だ、非武装中立だというのが、当時のマスコミや言論界、学界の常識でした。「進歩派」とはいうものの現在も言っていることは変わらないと思います。変化を嫌う彼ら、彼女らこそ「保守」そのもので、現在も防衛力整備に文句をつける言い回しも変わらないことに新鮮な驚きをもちます。

▼富士学校の開設

 世界の陸軍でも珍しい歩兵・砲兵・機甲兵が統一された学校。それが陸上自衛隊富士学校です。開設したのは1954(昭和29)年8月のことでした。陸自では「普・特・機」といいますが、この学校開設については警察予備隊初代総監であり、のちに統幕議長も務めた林敬三(はやし・けいぞう)氏の意向が強く働いたようです。

 林氏は内務省の警察官僚の出身、軍隊経験は皆無でしたが父君は陸軍中将であり、昔の陸軍の気分や実態に詳しかったのだろうと思えます。兵科閥というより陸軍の中にあった人事管理の困難さや、兵科どうしの対抗意識などが問題だとも考えていたのではないでしょうか。

 そこで普通科学校にあたる普通科部には長として陸将補(少将)を置き、副校長にも陸将補、学校長には陸将(中将)を充てるという組織になりました。こうして今でも、富士学校が所在する富士駐屯地には多くの将官がおります。

 ざっと数えると、学校長、副校長、普通科部長、特科部長、機甲科部長と富士教導団長、開発実験団長、情報学校長と8人も将官がいるわけです。これだけの将官が門を出入りするので表門の警衛にあたると大変でしょう。もちろん、他にも将官が多い駐屯地はあります。東部方面総監部(朝霞駐屯地)も多いです。方面総監に同幕僚長、同幕僚副長が2人、輸送学校長、体育学校長と6人もおります。

▼教育が本格化する

 6個管区隊、定員15万人体制になったのが昭和31年度末でした。「もはや戦後ではない」と政府白書がうたい上げた頃のことです。このときの砲種と保有数は75ミリ榴弾砲が153門、105ミリ同が336門、155ミリ同は195門、203ミリ同68門、155ミリ加農32門、107ミリ迫撃砲が520門となっています。合計で榴弾砲と加農で784門、迫撃砲と合計で1304門でした。

 この107ミリ迫撃砲はM2といわれ、のちに普通科連隊重迫撃砲中隊装備されます。口径が81ミリ迫撃砲より大きいので「ジューハク」といわれるようになります。砲身長は1285ミリと長く、最大射程4000メートル、6人で操作しました。

 富士学校創設の頃の特科部は教育、研究の両機能を持っています。久留米からは普通科学校、習志野から特科学校、相馬ヶ原から特科部、特車部(機甲科学校)が移駐してきました。

 

 昭和29年度の編成表があるので興味深い内容があります。特科部は3課になりました。庶務課(定員16)、教育課(同84)、研究課(同12)というものです。

庶務課には庶務、整備、管理の各班と付隊(づきたい)、教育課も同じく班が下につき、教務・教材・学生・戦砲(せんぽう)・観測・通信・武器の各班に分かれます。研究課は庶務係、資材・運用・訓練の各班と派遣者が勤務しました。

この体制で、特科学生等の教育訓練、特科部隊を中心にする部隊の運用及び小部隊の教育法、新戦法に関する調査研究、特科教導大隊の業務の監督指導を行ないました。

翌30年度には庶務課は教務課となり、課長は副部長が兼務し、学生班は学校総務部学生課に統合します。また教務班、教材班は教務課に統合されました。そうして戦砲班は30名を超す大所帯だったので、戦術班、砲術班に分離します。また、教務課に整備群を設けます。

▼北海道の第1特科群

 北方重視そのものの部隊があります。1954(昭和29)年6月に編制改編で、第1特科群(北千歳駐屯地)が生まれます。群本部と本部中隊の隷下には、第101特科大隊、第102特科大隊、第103特科大隊、第104特科大隊(のちに第4特科群隷下に移り、上富良野へ移駐)があります。

 第101特科大隊は155ミリ榴弾砲(3個中隊、18門)、102同は155ミリ加農(3個中隊、12門)、103同は203ミリ榴弾砲(3個中隊、12門)というものです。

 次回は陸自の師団改編と特科連隊についてお知らせします。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。