陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(50)91式10糎榴弾砲

▼世界大戦後の火力優先

 幕末、明治維新から陸軍建軍期、砲兵は「フランス砲兵」とからかわれました。そうしてまた第1次世界大戦後には、「第2次フランス砲兵」といわれたようです。

 世界大戦後、フランス陸軍は野砲の用法、整備について大きく反省をします。大戦でも野砲は目に見える目標を直接照準し、加農のように平射して歩兵部隊に直接協力することで勝利に大きく貢献しました。

しかし、射程の増大を要求され、平射能力を向上させた結果、弾道がますます低伸するようになります。すると、地形や地物に遮蔽された目標や、掩蓋陣地などに射撃することが難しくなりました。むしろ、擲射できて、運動性や弾の効力も大きく、発射速度も野砲と変わらない、師団砲兵として野砲と併用できる榴弾砲が必要であると判断します。

ドイツ軍は早くに戦役中にこれを活用していたのに、フランス軍では師団砲兵は野砲であるという固定観念にとらわれていました。反省したフランス軍は100ミリ級の大きさの榴弾砲を開発し、野砲とならべて砲兵連隊に配備します。

わが国でも、こうした主張を受け入れて、フランスのシュナイダー社の10糎榴弾砲を採用しようとしました。

▼技術本部設計との比較

 陸軍技術本部も独自の設計を行ないます。1926(大正15)年末のことでした。試製砲が完成し、1927(昭和2)年の末から審議会を開きます。技術本部の原案は、最大射程1万1000メートル、放列砲車重量1600キログラム以下、接続砲車重量2100キログラム以下というものでした。接続砲車重量とは牽引時の前車(弾薬車)をつないで輓馬6頭に接続した状態の重さをいいました。ここで思い出してほしいのは、欧州の軍馬でも6頭牽引は2トン程度ということです。

 砲兵監部の意見は、接続砲車重量を2トン以下にせよというものでした。やはり現実的な運動性を考えると、2100キロというのは馬への負担が大きいと考えたのです。砲兵監部とは陸軍教育総監部の砲兵部門のことでした。現場の意見を吸い上げて、砲兵の運用、教育等を扱いました。また参謀本部は運用者、作戦を立てる側として、威力を射程1万メートルと下げてよい、その代わり放列砲車重量を200キロ減らして1400キロ以下にせよという意見です。そして陸軍省は威力、重量ともにさらに減らして野砲以下にするという考えでした。陸軍省は予算を握ります。少しでも価格を下げたかったのかも知れません。

 審議が続けられ、結論が出ました。威力は原案のまま口径は105ミリ、放列砲車重量1500キロ以下、接続同で2000キロ以下となります。そうしてシュナイダー社に試製砲の発注が決まりました。

▼シュナイダーから購入

 1930(昭和5)年12月に1門が納入されます。つづいて翌年1月、残りの4門が到着します。伊良湖射撃場で梱包が開かれ試験射撃を行ない、つづいて野戦砲兵学校の実用試験に回されます。運動性の試験は房総半島を一周し250キロを走りました。さまざまな地形を駆け回り、とちゅう悪天候、吹雪にも悩まされますが、その性能は満足できるものでした。

 前回にも話題になった90式野砲より放列砲車重砲は100キログラムほど重かったのですが、弾薬搭載用の前車を軽量化し、全体ではほぼ同じにしました。輓馬6頭で牽引することができ、それでいて弾重は2.5倍、この差は大きいものでした。最大射程は1万800メートルです。

 師団野砲に採用することとなり、制式を1931(昭和6)年に上申し、認定は翌年5月になります。西暦1931年は皇紀2591年なので、年号の末尾をとって「91式」となりました。当初、シュナイダー社に300門の製造を依頼します。その後はわが国で生産することになり、佐山二郎氏によれば昭和17年10月末までに1155門大阪砲兵工廠で造られたそうです。

▼ジュウリュウ中隊

 1936(昭和11)年5月の陸軍平時編制改定のとき、師団野砲兵聯隊に十榴1個中隊4門を制式に編合しました。手元の「昭和16年度動員計画」をみると、代表的野砲兵聯隊の編制は4個大隊、12個中隊の輓馬編制です。第1、2、3の3個大隊はそれぞれ野砲1個中隊と91式10糎榴弾砲2個中隊で成り、第4大隊は15糎榴弾砲3個中隊となっています。

75ミリ野砲(おそらく90式)3個中隊=12門、105ミリ榴弾砲6個中隊24門、15糎榴弾砲(おそらく96式)3個中隊12門となります。軽砲12門、中砲24門、重砲12門、合計48門という重装備です。おそらく対ソ連用の編制でしょう。日本陸軍は火砲を軽視したというのを定説にするのは無理だと思います。

▼ジュウリュウの射撃

 操作員は75ミリ野砲の6名と比べると10名と多くなります。分離薬筒という形式で、弾と薬嚢は別々に装填されます。したがって射距離は装薬の種類と砲の角度で決まりました。砲手には番号が付きますが、1番砲手は発射操作、2番同は照準、5番同は2番の補助、3番と6番は弾薬置場に4番と7番が薬筒置場に、8番と9番は弾薬車に配置されます。

 「三駢繋駕(さんべんけいが)」といわれる左右2頭が3列、合計6頭で牽引します。最大射程では1号装薬を使い、初速が454メートル/秒、最大弾道高は2858メートルとなっています。もちろん、曳火榴霰弾も撃てました。時限装置をセットして目標の頭上で爆発させます。

 射撃速度は2分以内なら毎分6~8発、5分以内なら同じく3~5発です。連続射撃なら数時間にわたるものなら毎分1発とされていました。弾薬は砲車前車に8発、弾薬車前車に16発、同後車に32発を積みました。

 砲身は単肉自緊法で製造されて19.9口径、全長2090ミリ、重量は343キログラム、砲尾の閉鎖方式は螺式でした。高低射界は-5度~45度、左右には20度ずつ射界がありました。

 次回は96式15糎榴弾砲について。

(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。