陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(48) 90式野砲論争と機動砲兵
▼射程か機動力か?
自動車産業が発展を続けた第1次世界大戦後のことです。わが国でもささやかながら火砲の牽引にも内燃機関を使った牽引用の車輌を開発しようとします。理由はまず、6頭だての輓馬牽引では前車(弾薬車)も含んだ砲車の重量は2トンが限度だったことです。ところが、射程の増大を考えれば砲架の各部の強度もあげ、何より砲身の軽量化が大切になりました。
砲身の軽量化は「自緊法」によって解決しました。砲身に孔をうがった後に、内部から外側に強い圧力をかければ砲身素材は元に戻ろうとします。これによって2つ以上の砲身を組み合わせたもの(複肉)から、「単肉砲身」で十分な強度を得ることができました。小銃と同じような単肉が現実化できたので軽量化が達成できたのです。
問題は強力な装薬の燃焼、そこから生まれる火薬ガスの圧力に耐える砲身の開発はやはり重量問題とは切り離せませんでした。そうしたことからフランス・シュナイダー社に発注した90式野砲は単肉自緊砲身、砲口制退器、開脚で打ちこみ式駐鋤、駐退復座機の主体を砲身に固定するといったことで、スペックは当時、十分に国際標準であったわけです。
1930(昭和5)年に大阪砲兵工廠で試製された90式野砲(昭和7年に制式)は現場ではひどく好評でした。それまでの改造38式野砲(1926年制定)と比べれば、射角も大きくなり、方向射界も増えました。何より射程が1万1500メートルから1万3890メートルにも伸びたのです。
ところが放列砲車重量は1135キログラムから1400キログラムに増えました。このことは機動力を大きく落とすことになり、そこに参謀本部の作戦担当から不満が出たのです。野砲の長所は、その軽快な運動性にありました。歩兵の前進に合わせて進み、敵陣を撃つ、敵の防禦施設を破壊する、それこそが75ミリ野砲に期待される任務です。
そうしたことから、やはり軽量化し、運動性の高い野砲が必要だとされました。
▼性能的には後退した95式野砲
師団長が握る野砲兵聯隊、その装備する野砲は多少威力が少なくとも軽快な運動性が大切だという根強い意見もありました。射程を多少なら犠牲にして良いという考え方です。しかも昭和の初めの頃、陸軍はソ連との開戦では東部満ソ国境の地形錯綜した地域を突進する方針を決めていました。従来の満洲中西部の大平原が広がる地域を想定としての戦闘は必然性が少ないということになっていたのです。
これによって、道なき道を切り開き、そこを突進する野砲なら軽量であることが当然でした。しかもソ連軍は拠点であるウラジオストクを守る国境陣地は、その縦深性を高めていました。そこを歩兵が猛攻する。そうであるなら軽快な野砲火力の掩護は絶対に必要なのだという論理です。
こうして砲口制退器を外し、最大射程を1万700メートルに減らし、放列砲車重量が1108キログラムという軽量化された95式野砲(1937年仮制式)が生まれます。
ところが、話はもう一つ複雑です。それは1931年の満洲事変でした。そこで活躍したのは90式野砲でした。第2師団の部隊で戦場での検証を行なった結果です。多少の運動性の低下はしかたがない、それよりも大射程が役に立ったという現場の声を参謀本部でも無視できなくなったのです。
90式野砲は約200門が製造されました。95式野砲は約200門です。
▼機動90式野砲の誕生
94式4トン牽引車といっても知らない方が多いでしょう。それまでも重砲の牽引用として92式5トン、同8トンという牽引車は開発され、実用化されていました。日本陸軍は遅れていて、機械化も進んでいなかったという定説が広まっていたからです。
しかし、機械化部隊が満洲事変(1931年)以後に構想されると90式野砲を改造した機動90式野砲の牽引用に専用の車体を研究する動きが出ました。1933(昭和8)年のことでした。参謀本部第1部から野砲牽引の兵器研究の要望が出されました。
パンクレスタイヤを履き、車軸に緩衝器もつけた機動野砲を牽引する。分隊編成のままに他の牽引車に弾薬車を接続し、分隊長以下砲手全員と附属品を搭載、高速度の運行能力をもつ優れた牽引車でした。整備は急がされ、すでに実績のある各種自動車の部品も使えるようにし、補給も容易というものです。
1933年11月の研究開始後、翌年2月には東京自動車工業株式会社に4輌の製作を依頼します。5月には試製車2輌が完成し、竣工試験を行ない、重心位置を修正の後、野戦砲兵学校で実用試験を行ないました。結果は優良であり、1935年4月に制式制定が上申されます。本来、機動野砲は重量が1600キログラムにもなり、有名な94式6輪自動貨車で牽引する予定でした。もう輓馬6頭による輓曳には期待しないということです。エンジンは陸軍では初めて採用する空冷V型8気筒のガソリンエンジンでした。最大出力は91馬力、標準では72馬力というもので、速度も時速40キロを出せました。
▼独立混成第1旅団
1934年4月に、満洲では独立混成第1旅団が公主嶺で編成されました。これがわが国初めての全車輌編成による機械化兵団です。独立を冠するのは、通常、師団に隷下の歩兵旅団があるのに軍の直轄であったからでした。
この動きは列国と比べて、さほど遅れたものではありません。機械化部隊を早くからつくっていたのは英国です。ドイツやソ連に比べて戦略的機動兵団を持つということでは決して遅れてはいませんでした。むしろ、歩兵師団を主体にした陸軍で、野戦部隊としては2個しかなかった戦車大隊をすべて投入して機械化兵団としたのは卓見と言えるでしょう。
1936年、陸軍は在満洲兵備改善計画を終えました。この時点では、旅団司令部と材料廠があり、独立歩兵第1聯隊(3個歩兵大隊・歩兵砲1個中隊・速射砲同・軽装甲車同・総人員2590名、車輌297)、戦車第3大隊、同第4大隊、独立野砲兵第1大隊と独立工兵第1中隊というものでした。旅団全体では人員約4750名と車輌744というものです。
独立野砲兵第1大隊は3個中隊、各中隊は機動90式野砲4門でした。総人員は667名、車輌は130です。各中隊は4門の砲車、弾薬車8輌、それに94式4トン牽引車が8輌となっています。牽引車の自重は3550キログラム、全長は3.8メートル、全幅1.85メートル、全高2.2メートル。座席は前後2列、乗員は6名です。(『帝国陸軍機甲部隊』加登川幸太郎、白金書房、1974年)
次回はやはり自動車化牽引が進む野戦重砲と10センチ榴弾砲を紹介します。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。