陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(49)機械化兵団解散

▼機械化兵団の初陣

 1937(昭和12)年7月7日、盧溝橋で日中両軍が衝突します。11日には関東軍に、独立混成第1旅団主力ほかの部隊を北支那駐屯軍に増援するように参謀本部から指示が下りました。旅団は酒井鎬次少将(8月2日に中将昇任)の指揮下に、応急派兵で13日に公主嶺を出発、鉄道輸送で北京の北東方地区に到着します。応急派兵というのは平時編制の戦闘部隊が出る、整備、兵站や補給部隊はその後を追っかけるという形式です。

 出動したのは戦車第4大隊でした。大隊は3個中隊で編成、1個中隊が89式中戦車、1個が92式重装甲車、あと1個が94式軽装甲車です。

92式重装甲車は騎兵の機械化の目玉でした。いまでいえば偵察戦闘車です。砲塔は海軍の駆逐艦用の6ミリ鋼板を張り回し、乗員は3人、重量は3.5トン、装軌式で砲塔には7.7ミリ機関銃、車体前方には陸軍では珍しい13ミリ機関銃、これをアメリカ製空冷ガソリンエンジン45馬力で時速40キロを発揮します。しかし、耐久性が低いことや火砲がないことで、95式軽戦車が登場すると姿を消してゆきました。総生産量は167輌でした。お値段はというと2万5000円という記録があります。

 94式軽装甲車は戦車隊から要求されたサイドカー(2輪に側車付き)の代わりに、装甲もされた連絡・補給・捜索車輌として開発されました。車体は最大12ミリの防弾鋼板で守られ、2人乗り、35馬力のドイツ製空冷ガソリンエンジンで重量は約3トン、軽快な運動力を発揮します。ただし武装は7.7ミリの機銃しかありませんでした。それでも昭和15年までに843輌も造られました。最高速度は40キロを出せました。お値段は約4万円と92式より高価です。

 寄り道すれば、兵器の価格は興味深く、戦車はだいたい重さ1トンが1万円だったといわれます。89式中戦車が8万円、97式中戦車は15万円、95式軽戦車が7万円とされていたようです。現在の3000円が1円と考えると、89式は2億4000万円、97式が4億5000万円、95式は2億1000万円となります。92式重装甲車が7500万円、94式軽装甲車が1億2000万円です。ちなみに38式歩兵銃は50円でしたから15万円、軽機関銃は650円だったので195万円となります。

▼東條軍参謀長が指揮を執る

 8月18日、旅団は関東軍に復帰し、熱河省を通って張家口北方に進出します。関東軍はもともと北支那を安全地帯にすることで満洲国の安全を図ることにしていました。同時に内蒙古といわれる地域の民族的独立をうながしています。だから北支那に戦火が及びそうになると、ただちに内蒙古チャハル省方面に兵力を送るようになりました。

 指揮をとったのは東條英機中将、関東軍参謀長でした。幕僚が指揮権をもつことは普通にはないので何らかの手管(てくだ)があったのでしょう。またまた寄り道になりますが、東條さんのような陸士17期生たちはほとんど実戦経験がありませんでした。日露戦争の終末に任官した人たちなので、長い平和な時代に成長してきました。ずいぶん張り切った戦闘指導をしたと言われてもいます。

 独混1旅は大行軍を始めました。道路はひどく狭く、未整備で自動車など通ったこともない未開の地です。25日、出発から1週間かけて600キロメートルを走破します。ふつうの歩兵部隊なら強行軍で1日あたり30から40キロですから、やはり早かった。

 いわゆるチャハル作戦が始まります。独混1旅も29日から行動を始めます。協働したのは第5師団です。部隊は山西省にも進撃します。原平鎮という町では15センチ加農までが砲撃に加わる激戦になりました。軽装甲車中隊は城壁の下で3輌を撃破され、中隊長も重傷を負います。

 混成団主力は10月11日以降北方に進み、17日にはパオトウ(包頭)を占領します。

▼悪評だらけの独混1旅

 加登川幸太郎氏の『帝国陸軍機動部隊』によると独混1旅の行動は悪評サクサクだったそうです。歩兵は自動車機動が当然だからと、敵が逃げてもトラックが来るまで追撃しない。前進して敵とぶつかると無防備のトラックだから、かなり離れて下車する。重装備を抱えて徒歩前進するから、普通の歩兵部隊よりはるかに動きが鈍い。

 突進していけるのは戦車と装甲車ばかりである。ところが訓練も任務も歩兵直接支援だから、歩兵が来なくては動けない。むやみに動くと軽装甲車中隊のようにやられてしまう。ひどい誤解に満ちた非難もありました。燃料補給や整備のために装甲車を停めていると、動かないなら徒歩ででも前進しろなどと罵声を浴びたようです。

 現在のように、若者の多くが自動車を動かせる時代ではありませんでした。トラックを走らせる、つまり故障も修理できるというのは数少ない貴重な技術者です。機械というものへの理解も世間一般に少ない時代でした。

 そのうえ、使う側、命令を出す側もまるで機械化部隊が理解されていなかったのです。上級司令部は燃料や部品の供給、準備など考えてもいませんでした。隷下部隊とは行けと言われれば行くものだし、燃料がない、部品がないなどというのは理解を超えていたのでしょう。

▼機械化部隊など不要

 旅団長は硬骨というか自尊心が高いというか有名な人でした。陸軍大学校も恩賜で出ます。参謀本部制度班長も務め、国際連盟にも出張、フランスの駐在武官、1931(昭和6)年から陸軍大学校戦術教官、9年からは研究主事、このときに少将に。多くの上級司令部の幕僚たちは酒井中将の教え子でした。

 ヨーロッパで研鑽を積んできた酒井中将からすれば、機械化部隊の使い方がまるで分かっていない後輩だらけです。しかし、多数は戦車も機械化も理解できない人でした。なんだ、金のかかる機械化部隊など要らない、トラクター牽引の野砲なんかろくに役に立たないではないかという人たちが多くおりました。そうして、この混成旅団は解散させられてしまいます。

同じようなことが、かの有名なドイツ軍のグデーリアン将軍の突進のときも起こっていました。人は後出しジャンケンなら何とでも言える、そうした事実は洋の東西を問わずに記録されています。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。