陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(66)自衛隊砲兵史(12) 107ミリ重迫撃砲(2)
荒木 肇
□ご挨拶
暑い日々が続きます。先週の火曜日は、わたしも所属する(公益社団法人)自衛隊家族会の総会と、その後の理事会、意見交換会が市ヶ谷で開かれました。
その冒頭のご挨拶で、吉田圭秀統合幕僚長が、今後の女性自衛官の全自衛官に占める割合の増加について語られました。現在約8%の割合であるのを、2030年までには約12%にするという方針です。外国軍隊ではその数字は12%から15%ほどであり、たしかに我が自衛隊では女性の比率がたいへん低いという事実があります。
アメリカ軍ではワンスター(准将)からフォースター(大将)まで、女性将官はまったく珍しくありません。対して自衛隊には将と将補ポストが合計で280余りですが、女性の将官はまさに指折れるほどでしかありません。このことは、女性の仕事と出産、育児についての日米社会環境の違いとしか言いようがないのです。
現に、統幕長のご指摘では女性が高級幹部になるための子育ては、そのご実家の親ごさんによる応援と援助がなくては無理だという声があるそうです。そうであると、夫君である男性幹部が育児休業を取るという決断も必要になってきます。共同生活者である夫がいながら、女性が犠牲になって退官する。それでは少子高齢化の募集難と言いながら、女性隊員にならないかと声をかけにくいのではないかと思います。
社会全体が考えなければならないことなのです。
▼昭和戦前期の迫撃砲
1931(昭和6)年のことでした。フランスから口径81ミリ、重量67キロのストークブラン迫撃砲の売り込みがありました。列国はどこも世界大戦で注目されたガス弾の発射手段として軽便な火砲、迫撃砲を装備しています。陸軍はこれに対してすぐ反応し、滑空砲であることから「有翼弾」の特許料を支払いました。そうして直ちに国産化のために開発計画がスタートします。
なにぶん、当面の相手はソ連極東軍です。ソ連には有力な化学弾部隊があること、ガス弾の投射には迫撃砲を使うことはよく知られていました。そこで開発されたのが、94式軽迫撃砲でした。94式ですから皇紀2594年、昭和9(1934)年になりますが、それは制式の年であって、実際の完成は1935年のことだったのです。
口径は化学学校側の要求で90.5ミリでした。しかも精密な射撃ができるように、射弾の修正がしやすいように頑丈な底板が付きました。それに加えて駐退復座機も付けたために重量は159キロにもなってしまいます。
このあたりは現在の、ソ連邦軍の血筋を受けたロシア軍砲兵、化学戦部隊の考えとは真逆な行き方でしょう。彼らはいまだに砲兵戦とは火砲射撃とは、精度より量という考え方をとっているようです。
米国をはじめ欧州諸国、わが自衛隊も精度の高い砲撃を重視しています。もともと砲身砲を使う砲撃は弾着がばらつくことが前提です。その散布界の中に半数が収まることを命中とするので、関係のないところにも被害を及ぼします。それが民間人や施設であれば、当然、人道にもとる行為なのですが、ロシア軍も、わが隣国の超軍事大国砲兵も、そういう考えはもっていません。とにかく砲弾をばらまく方針をとっています。
▼97式曲射歩兵砲
1937(昭和12)年7月に支那事変が起こります。陸軍はこの不時の戦闘開始より前に、新しい軽量の迫撃砲を装備することを決めていました。前に述べたヘビー級の、射撃性能の優れた94式軽迫が重すぎ、構造も複雑で高価になっていたためです。
フランス製のストークブランをコピーしようと決まりました。11月には完成し、翌年には歩兵大隊に97式曲射歩兵砲として配備されます。重量は67キログラム、口径は81.4ミリメートル、最大射程2850メートルというものでした。TNT火薬が250グラムから540グラムが充填された有翼弾を飛ばしました。
この迫撃砲は南方戦線で活躍します。大きな火砲は射撃前に「射界清掃」が必須です。発射された弾が樹木やその枝に触れたらいけません。また陣地進入も、変換用の予備陣地の設定にも大きな手間がかかります。この軽量の迫撃砲は、そのすべての手間が小さくなりました。
当時の歩兵戦闘の基本は「迂回奇襲」でした。敵陣地の正面を歩兵が強行突破するのではなく、その行軍力を生かして敵陣の腹背を突くという戦術です。これを掩護するための歩兵砲や山砲は南方の密林では重すぎました。
加えて、当時の米軍の対砲評定は地上からの音源標定と、観測機による発砲炎や煙を目視するものでした。この迫撃砲はよく身を隠しました。火砲にとって、その宿命的な発砲音や、炎、煙はどうしても避けられないものですから、密林内のわが迫撃砲はほとんど弾の尽きるまで射撃をできたのです。
▼92式歩兵砲
世界標準だった81ミリ軽迫がなぜ採用が遅れたか。おそらくそれは曲射・直射ができた
92式歩兵砲(口径70ミリ)があったからではないでしょうか。この歩兵砲は「大隊砲」と愛称されたように、歩兵聯隊に3個ある歩兵大隊ごとに1個小隊2門配当されました。歩兵大隊の中にあった重機関銃中隊の歩兵砲小隊でした。
この歩兵砲は1928(昭和3)年から開発が始まり、31年には完成し、翌年に制式となりました。敵の機関銃陣地は直射で撃ち、仰角を変えれば迫撃砲のように曲射できました。俯仰角は-8°~70°で最大射程は2800メートルです。軽量で全重は204キログラムだったので軍馬1頭で曳きましたが、後には分解して駄載もしました。
しかし、制海権、制空権を奪われた南方戦線では、その機動力も低下させられ、無駄な重量、防楯(ぼうじゅん)や頑丈な砲架が有りすぎました。
▼2式12糎迫撃砲
陸軍最後の迫撃砲です。これは独ソ戦の教訓が、ドイツ軍から伝えられたものでした。ソ連軍はドイツ軍の攻勢により、砲身砲の加農や榴弾砲を緒戦で失い、熟練した砲兵の損害も大きなものになりました。そこでソ連軍がとった方法が、ストークブラン式の120ミリ滑腔砲でした。
軽量、安価で、取り扱い教育も簡単に済む、威力も口径120ミリとなれば155ミリには劣っても、105ミリより大きかったのです。そこでわが軍も昭和17(1942)年に2式として口径120ミリの迫撃砲を造ります。重量は260キログラムでした。弾丸重量は12キログラムです。
もちろん、人力で動かすことはできず、運搬はトラックの荷台で行ないました。完成した12迫は南方地域に送ることはできませんでした。その代わり、もう大戦末期の本土決戦に備えた師団(決戦師団)には野砲兵聯隊と、この迫撃砲大隊が編制に入っていました。迫撃砲聯隊もあり、2個大隊(6個中隊)36門でした。
戦後の自衛隊も米式装備の導入で、3種類の迫撃砲を使いました。口径では60ミリ、81ミリ、107ミリです。そうして今はまた口径120ミリが戻っています。次回は、陸自の107ミリ重迫撃砲についてお話しましょう。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。