陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(68)自衛隊砲兵史(14) 冷戦の終焉
□胸ポケットの地図
大事な友人がいます。もう付き合いも25年にもなります。ある連隊のベテラン幹部でした。初めて知り合った頃、彼が若い陸曹で北海道にいたことを聞きました。
「僕らね、戦闘服のポケットに、いつも地図を入れとったんですよ」
彼は普通科連隊の機関銃手だったのです。
「あのね、ロスケが来るでしょ、海渡って来るんですよ、そしたらボクら名寄から出てね、音威子府(おといねっぷ)峠から右へ降りて行くのですよ、それで海岸が見える丘の上に陣地掘るんです、そこで死ぬんだよなぁ、その場所の地図、いつも胸のポケットに折りたたんで入れていたなぁ」と懐かしそうに語ってくれました。
1960年代、70年代、いつソビエト軍がやってくるか、北海道の自衛官は真剣に考えていました。何も起きなかったことを知っている今から見れば、笑い話でありましょう。しかし、彼のように北海道の地に、自分の死に場所を覚悟していた若者が数万人もいたのです。戦車もありました。火砲も今よりはるかに多くあったのです。このために北海道はソ連軍の侵攻から免れたのではありませんか。
▼ソ連が崩壊する
1989(昭和64・平成元)年のことでした。ドイツのベルリンの壁が崩壊します。東ドイツが造ったベルリンを縦断し、西ドイツとの交流をさえぎる壁でした。そうして2年後にはソビエト連邦が消えてしまいます。
ソ連軍がやってくる、北海道に攻めて来る、そうした可能性は極めて低くなりました。アメリカの関心も中東や東アジアに向くようになります。
もう1つ、重大な懸念が生まれました。それは将来的な少子高齢化社会への対応です。また、確実に予想されたのが経済状況の悪化でした。予算の制約があるなかで、整備を進めるしかありません。思い切ったリストラ策です。
まず、各普通科連隊の第4中隊が教育特定中隊となりました。基幹要員の一部の幹部と陸曹以外は新隊員ということになります。ほかの職種部隊も同じような改革がされました。また、招集された即応予備自衛官が編入されるような部隊、これをコア化するといいますが、そうした部隊(連隊)も生まれます。
▼ついに旅団化始まる
営々と築き上げて来た13個師団2個混成団という陸自は戦略単位数では変わらなかったものの、9個師団6個旅団の体制に変化しました。1995(平成7)年の「防衛計画の大綱」によるものです。
1999(平成11)年3月には、広島県海田市(かいたいち)に司令部があった第13師団が旅団になりました。このとき、鳥取県米子の第8普通科連隊、山口県山口市の第17普通科連隊は人員削減、海田市の第46普連も同じ、そうして第47普連はコア部隊となりました。小型化された3個普連、それにコア部隊の1個普連、第13野戦特科連隊は改編縮小され、一部コア化した第13特科隊になったのです。
同じように、第13後方支援連隊は第13後方支援隊に、高射特科大隊も同中隊、戦車大隊も同中隊、対戦車隊も中隊に、偵察大隊も中隊に、すべてがコア化もされました。ほかに旅団の兵力は、第13施設中隊、同通信中隊、同飛行隊、同音楽隊となったのです。
2001(平成13)年3月には、群馬県榛東村に司令部を置く第12師団が同じく旅団化され、2004(平成16)年には北海道帯広市の第5師団も旅団化されます。第11師団(北海道札幌市真駒内)、第1混成団、第2混成団が旅団となりました。
▼改編後の態勢
北部方面隊(札幌市)はそれまで4個師団(第2、第5、第11、第7機甲師団)、1個特科団(砲兵旅団)、同高射特科団(高射砲兵旅団)他を隷下にしていましたが、2個師団2個旅団体制になります。
中部方面隊(兵庫県伊丹市)は3個師団(第10、第3、第13)1個混成団(香川県善通寺)が2個師団2個旅団になりました。北部方面隊とは方面隊直轄部隊(特科団など)との規模は違うものの、同じような体制です。
そうして名古屋に司令部を置く第10師団は戦略機動師団としての役割を強化されました。石川県金沢市の第14、名古屋市の同35、三重県久居市の同33の各普連、愛知県豊川の第10特科連隊、滋賀県今津市にある第10戦車大隊も、人員、装備ともに増強されます。
▼新装備が西方へも
96式多目的誘導弾システム、軽装甲機動車は福岡の第4師団へ最初に配備されました。 この誘導弾は79式対舟艇対戦車誘導弾(通称重マット・MAT)の後継として開発されます。着岸前の敵上陸用舟艇や遠距離からの敵戦車の撃破をねらったものです。
システムは、射撃指揮装置、情報処理装置、地上誘導装置、発射機から成ります。開発は1985(昭和60)年度から始まり、1996(平成8)年度から調達が開始されました。
ミサイルは上空から赤外線シーカーで目標を捜索し、光ファイバーで赤外線画像を射撃指揮装置に送ります。テレビモニターでその画像を見ながら、目標の識別、追尾指示を行なって、ミサイルは画像追尾をして目標を撃破します。
射程は約8000メートル、敵の視界外から発射、誘導ができます。そのため、従来ならミサイルの発射光を見つけたら発煙弾を発射し、自分の姿を隠すという防御手段をとれません。
発射機は、高機動車をベースにしていて、後部に6連装のランチャーを載せています。ミサイルは全長2000ミリメートル、直径約160ミリ、重量60キログラムです。最初の配備は第4師団第4対舟艇対戦車隊でした。これは第4対戦車隊を改編した部隊です。現在はさらに改編され、大分県玖珠町の西部方面対舟艇対戦車隊になっています。
当時は海峡部にある部隊に配備される予定でした。第2(旭川)、第9(青森)、第5(帯広)、第11(札幌市真駒内)の対戦車隊が改編の上で装備されることになりました。
西部方面隊には2002(平成14)年に、現在の水陸機動団の元になった部隊の一部になる西部方面普通科連隊(WIRE)が新編されています。
このように運用が変われば新装備が配当され、新しい部隊が生まれ、新教範が作られ、人事・教育にも大きな影響をもちます。自衛隊の装備や、兵器を論じる時には、大きな前提となる見方です。次回は軽装甲機動車、それに99式自走榴弾砲などを知ってみましょう。 (つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。