陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(51)4年式15糎榴弾砲

▼大正時代の野戦重砲

陸軍の15糎榴弾砲は、日露戦争後に到着したクルップ社に発注した38式15榴から歴史が始まります。いわゆる「サンパチ式火砲群」の一つです。しかし、いくつかの設計上の失敗があり、陸軍は大正時代に4年式15榴を制式化します。問題はこのクラスの野戦重砲の重さにありました。

輓馬6頭で牽引する上限が、強力な軍馬をもつ欧州陸軍でも2トンでした。そこでフランス陸軍では、1門の砲を2つに分解して輓曳し、陣地に着くと組み立てて射撃可能にするといった方法を採っていました。そこから学んだのがフランスに留学していた緒方勝一(おがた・しょういち)砲兵少佐でした。

▼技術軽視とは言うけれど

緒方少佐は技術系の将校で大将となった人たちの1人です。帝国陸軍は、しばしば精神主義で科学軽視だったとされています。しかし、決して技術系の人が脇に追いやられていたわけではありません。

緒方大将は佐賀県士族で、東京の陸士予備校だった成城学校から士官候補生に採用され(1893年12月)、翌年11月、陸士第7期生に進みます。第7期生といえば2・26事件で凶弾に倒れた渡辺錠太郎大将が1つ下の第8期生です。2人は同時に大将に親任されました(昭和6=1931年8月)。

緒方大将は1875(明治8)年生まれです。少尉に任官したのが東京湾要塞砲兵聯隊でした(1897年1月)。その後、陸軍砲工学校普通科に進み中尉(99年11月)に進級、高等科卒業後1901~1904年の間にフランス留学します(1902年に大尉)。帰国して日露戦争には第4軍副官として出征しました。

凱旋すると技術審査部に長く勤務します。1913(大正2)年には重砲兵第2聯隊付きで砲兵中佐に。翌年のチンタオ要塞攻略戦で独立攻城重砲兵第2大隊長として出征します。1915年には観戦武官としてフランスへ行きました。滞欧中に大佐に進み、帰国すると歩兵学校研究部員、すぐに技術本部第1部長になります。20年に陸軍少将、重砲兵学校長、砲工学校長、科学研究所長、欧米出張中の25年に中将です。28年3月には造兵廠長官となりました。

▼歩兵のエリートと砲兵のそれと

これを歩兵のエリートの渡辺錠太郎大将(1874年生まれ)と比べてみます。渡辺大将は貧乏だったために小学校卒の現役兵として入営、1894年士官候補生採用でした。陸士には翌年入校、その翌96年11月陸士卒、少尉任官は越前(福井県)鯖江歩兵第36聯隊で97年6月です。99年11月に中尉進級。当時は各兵科、将校団に欠員があると進級するシステムでしたから、緒方砲兵中尉は渡辺歩兵中尉に追いつかれてしまいました。

大尉になったのは緒方が1902(明治35)年11月、少尉任官から5年10カ月、渡辺が1903(明治36)年12月、少尉任官から6年6カ月、少佐になったのが緒方の場合は1905(明治38)年10月、渡辺が1908(明治41)年12月。緒方は尉官を8年9カ月だけで佐官になりました。渡辺は11年6カ月もかかって佐官の立場になりました。むしろ緒方が早すぎるという感じがします。

佐官時代では、緒方が中佐になるのが1913(大正2)年1月、渡辺も同時です。少佐を緒方は7年3カ月、渡辺は5年11カ月やって中佐になります。今度は緒方がゆっくりです。大佐になるのは緒方が1916(大正5)年9月、渡辺は同年7月、補職は緒方が技術審査部附きでフランス軍の観戦武官、渡辺が参謀本部外国戦史部長でいかにも学問好きの人柄がしのばれます。

いよいよ少将になりました。緒方は技術本部第1部長で1920(大正9)年8月です。大佐を4年未満でゼネラルとは一選抜疑いありません。渡辺も同時です。中将になったのも、緒方も渡辺も同じで1925(大正14)年5月でした。それぞれ補職は科学研究所長、陸軍大学校長。そうして大将になったのが、これまた同時で1931(昭和6)年8月です。

緒方大将は陸軍大学校を出ていません。砲工学校高等科では優等賞を取ったわけでもありません。しかし、重要な点があります。2人とも日露戦争に出征していました。渡辺は歩兵中隊長として部下の先頭に立ち、負傷し、後送されています。緒方はチンタオ要塞攻略の攻城重砲兵大隊長として最前線に立っていました。技術行政のトップを歴任したこの人の処遇を見れば、陸軍は決して技術を軽視などしていないことが分かります。

▼4年式15糎榴弾砲

 緒方少佐は砲架を前後の2つに分けることにします。後ろの方に砲身を載せて、前車(弾薬車)とあわせて3車で1門を構成するようにしました。10名の砲手が乗って、この大型野戦砲を少しでも早く動かせるようにします。

 1908(明治41)年4月、大阪工廠に試製砲を発注しました。完成までに1年がかかります。火砲の設計と実作は難しく、少しでも軽量にすると強度が減り、重くすれば運動性が下がりました。それやこれやの試作や改造で時間がかかるものでした。

 1914(大正3)年7月、行軍演習を行ない、射撃場で1門1000初の実弾射撃を行ない、まずまずの成績を収めます。翌、大正4年に制式化されました。ところが、その後、多くの改修要求が出ます。これがこの火砲の気の毒なところでした。

射程の増大を要求され、薬室を延長し(つまり多くの装薬を使う)、これに応じる駐退復座機を開発します。これが改造4年式15糎榴弾砲です。この他にも修正4年式15糎榴弾砲も造られ、これは砲架に強度を高めるための改造がされました。そのために重量が大きく増えました。

▼野戦重砲兵聯隊の4年式15榴

1918(大正7)年の平時編成改正で、これまでの重砲兵聯隊は野戦重砲兵聯隊に改編されていきました。攻城に重点を置くことから、機動力を重んじた野戦重砲兵になったのです。この聯隊は2個大隊6中隊編成でした(ただし平時は4個中隊)。各中隊は指揮小隊(観測・通信)と戦砲隊(砲車隊2個小隊4門と4輌の弾薬車をもつ弾薬小隊)と中隊段列で成りました。

砲身車と砲架車はそれぞれ6頭の輓馬で曳きました。陣地に進入すると、両車を連結し砲身を砲架車の上に移動します。これを人力で行なったのですから、昔の重砲兵は体力自慢であったことは確かです。砲身車の車輪を外すのも6名が架尾を持ちあげ、2名で車輪を抜くという離れ業も行ないました。それらをわずか10分で行なう訓練をしたといいます。

放列砲車重量は2800キログラム、最大射程8800メートルです。約280門が製造されました。

次回には96式15榴のお話をします。

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。