陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(13)東京湾防衛の要塞(1)

□はじめに

 大雨災害です。各地に被害が出ました。交通網もさまざまな支障があります。皆さま、いかがでしょうか。

 今回はアメリカ合衆国の東インド艦隊の江戸湾侵入の恐怖と「黒船」の衝撃、その結果の防備体制の強化を見たいと思います。合わせて当時の軍艦についても調べてみました。

▼ペリーの恐怖

 アヘン戦争(1840~42年)の情報が幕府に伝わったのは、天保11年といいますから開戦からすぐに汽走武装砲艦ネメシスなどの活躍も知られたことでしょう。残された絵には木造の中国軍船が破壊されて炎上している場面などがあります。

 ペリー提督が江戸湾に侵入し、品川沖から砲撃をするジェスチャーを見せたのも、当時のわが国には射程2キロにもなる大型砲がなかったからでした。もともと幕府自身は大坂の陣(1614~15年)では城を砲撃し、天草の乱(島原の乱ともいう1637~8年)ではオランダ船からの砲撃を行なうという火力重視の考えをもっていました。また、名古屋城の図面などを見ても、防衛用の大砲が多く配備されていたことも明らかです。

それが、大坂の陣の後には十貫目玉(弾量37.5キロ、口径約180ミリ)以上の大型砲の開発・保有を禁じます。おかげで、幕末の頃には2貫目玉(弾量7.5キロ、口径107ミリ)を使う青銅砲を造る技術しかありませんでした。

先にも述べたように、この頃長崎の町役人、高島秋帆はオランダ製の大砲や小銃を買い集め、門人たちと研究、訓練に励んでもいました。西洋流の砲術、部隊行動を見せましたが幕府首脳はこれを認めず、それどころか秋帆を罪人としてしまいます。当時は新しいものを紹介し、政策について意見をいえば「ご政道に口をはさむ無礼者」とされていたからです。ちなみに秋帆を罰したのは、教科書にも載る天保の改革の推進者である老中水野忠邦(1794~1851年)でした。

興味深いのは、水野はこれまでの「無二念打払令(むにねんうちはらいれい)」を廃止し、「薪水(しんすい)給与令」を出しています。外国船が近づいたらとにかく撃退してしまえという方針を止めて、人道的な対応をせよというわけです。話し合いで解決するが、それなりの防備も施しておこうという考えだったのでしょう。江戸湾の防衛にも関心がなかったわけではなく一応の情報収集もしていました。

江戸湾の防備状況を調べたのは幕府高官鳥居耀蔵(とりい・ようぞう。1796~1873年)です。鳥居は知行7500石の大旗本、彼はその養子です。高名な儒学者林述斎の第7子でした。1839年には目付(めつけ)に昇進し、漢学の素養の深さや詩文作成の能力が評価されていました。

思想的にはとことん攘夷に固まっています。「復古、士道作興」を掲げる忠邦に忠実で、江戸町奉行になってからは蘭学を弾圧し、町民生活をおびやかす妖怪(ようかい)として嫌われました。耀蔵の「よう」と叙任して甲斐守(かいのかみ)と名乗ったので「よう・かい」とあだ名をつけられたのです。

この耀蔵が伊豆半島の防備状況を視察する正使となります。副使は代々伊豆韮山代官を務める江川太郎佐衛門秀龍でした。江川は洋式の反射炉建設の途中ですが、耐熱煉瓦や高火力のコークスも入手しにくくたいへん苦労をしていました。

もちろん手本はオランダからの書物です。江川の弟子たちは測量技術なども「蘭式」を採用していたので、鳥居はこれをひどく不快としました。鳥居の悪意のこもった報告により、江川の反射炉には幕府予算も投じられず、これによって技術進歩はとどこおってしまいました。

それでもペリー来日の2年前には佐賀藩主鍋島直正(なべしま・なおまさ、閑叟と号する、1815~71年)に協力して佐賀に反射炉を完成させました。ただし、この反射炉でも生産量は乏しく、大量生産はできませんでした。こうして江戸湾の防備はほとんどないままにペリーの来航を迎えてしまったのです。

▼黒船は鉄船ではなかった

 よく言われた誤解があります。黒船とは鉄板の色のことであり、アメリカ海軍は装甲した艦でやってきた。それに対して幕府には鉄製のソリッド(実体)弾しかなく、交戦することなどできなかったという話です。中には「石火矢(いしびや)」という用語から、削った石の弾丸を撃ちだす大砲しかなかったという迷解説も読んだことがありました。

 実際は米国海軍軍艦が黒かったのは防水、防腐に役立つ瀝青(れきせい)、あるいはチャンと呼ばれた塗料が塗られていたのです。瀝青とは天然のアスファルトやコールタール、ピッチなどの総称になります。また、石火矢というのも16世紀から17世紀にかけて用いられた前装滑腔砲のことでした。

 では、舷側に鉄板を張った装甲艦はいつ、どこで戦場に出たのでしょうか。『世界史を変えた50の船』(イアン・グラハム、原書房、2016年)を見ますと、フランスの大型軍艦グロワールが世界最初の「鉄甲艦」であるとされています。

 1853年、ペリーの来航の年のことです。クリミア戦争のシノープ海戦でロシア軍艦はトルコ艦隊をせん滅します。トルコ海軍の軍艦は木造艦でしたから、ロシア軍艦の炸裂弾を浴びて次々と沈んでいきました。木造の艦体を簡単に貫いた砲弾は艦内で爆発します。ロシア海軍の備砲は内部に施条があり長くとがった榴弾を使い、先端には信管が付いていたのです。

 フランスはただちにそれまでの装甲された浮き砲台を改良し、航洋能力のある鉄製装甲艦を開発します。当然、装甲のせいで船体重量は大きくなり、動かすためにはより強力な蒸気機関が必要です。艦は大型になりました。1859年に進水し、翌年艤装を終えて就役したグロアール(栄光)は世界で最初の航洋鉄甲艦でした。この航洋、つまり航海することができることが重要です。それは「浮き砲台」のような非航洋型の船とは異なるからです。

 フランスのツーロンで建造されたこの艦は排水量5720トン、全長約78メートル、3本のマストについた帆と2500馬力の蒸気機関を備えていました。木材の外側に錬鉄製の板を張っています。厚さ66センチの木材を最大で120ミリの鉄板で覆うようになっていました。この鉄板は艦の舷側と喫水線の下1.8メートルまで張られています。これを装甲帯といいました。

 姉妹艦は4隻でしたが末娘のクーロンヌはより改良されました。全部の船体を鉄の装甲で覆ったものでした。装甲の下には厚さが100ミリのチーク材と鉄格子で補強され、最後には厚さ300ミリのチーク材が鉄製の船体に取りつけられていました。

 次回はさらにグロアールに対抗するために建造された英国海軍のウォーリア(1860年に進水)をご紹介します。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある