陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(14)東京湾防衛の要塞(2)

□信管と弾の話

 砲弾には多くの種類がありました。今後も出てくるのでおおよその説明をいたします。榴弾、榴霰弾、破甲榴弾、堅鉄弾、徹甲弾、尖鋭弾、曳火榴弾、発煙弾、照明弾などなどとさまざまな砲弾があります。「甲」というのは装甲鈑を指しました。強い鋼鉄の板のことです。破甲、まさに装甲を破る、徹甲弾、これも装甲を貫徹するなど名前からその期待される性能が分かります。尖鋭弾というのは、弾の先端をとがらせて空気抵抗を少なくし、射程を伸ばすようにしたものでした。

 これらには炸裂させる火薬(炸薬といいます)が入っていますが、この炸薬に望み通りのところで点火して轟爆させる装置のことを信管といいます。これが弾の先端部分についていれば弾頭信管といい、弾の内部で後方に置かれているのが弾底信管です。

 機能から区別すると空中で炸裂させる曳火信管、目標にぶつかって炸裂させるものを着発信管といい、この両方ができるものを複働(ふくどう)信管とします。着発信管の中にも衝突の瞬間に機能する瞬発信管、少し遅れて機能させる短延期信管の2種類があります。

 この信管はすべて火薬が燃える時間を利用したものでした。これを薬盤(やくばん)信管といいました。また、機械的に時計のように働くものを機械信管といいます。これが第2次世界大戦になると電子装置を使った近接信管というものも現われました。

 曳火信管は榴霰弾に使われます。大きな筒の中にたくさんの子弾が入っています。その子弾が黒色火薬の爆発で斜め下に飛んでいきました。発射してから目標位置に着くまでの時間をあらかじめ設定しておけば目標上空で炸裂し、内部の子弾は束になって地上に降り注ぎます。露出した人馬は掃射されました。盛んに使われたのが第1次大戦までです。天蓋のある陣地や、塹壕にこもり鉄帽(てつぼう・ヘルメット)をかぶった敵兵には有効ではなく、砲弾は榴弾が主流になっていきました。

 榴弾には瞬発信管と短延期信管が使われます。文字通り、瞬発信管は堅い物にあたればすぐに炸薬を起爆します。短延期信管は目標にあたってからごく短い時間、作動しません。これは加農で平坦な場所にいる目標を射撃するとき、あえて目標の少し前に砲弾が落ちるように撃ちました。すると砲弾はバウンドして敵の頭上で炸裂します。榴弾はその破片そのものが殺傷、破壊効果を期待しますから、榴霰弾のような効果があるのです。

▼英国海軍装甲艦ウォーリア

 1859年に進水したフランス海軍グロワールと、翌1860年に進水した英国海軍ウォーリアの違いは何かといえば、その構造でした。グロワールは木造の艦体に鉄板を覆っただけなのに対して、ウォーリアは鉄製艦体に装甲をほどこした最初の軍艦になりました。

 厚さが114ミリにもなる装甲鈑の下には、厚さ45センチのチーク材が重ねられて、それを厚さ25ミリの鉄製の艦体にボルト付けされました。また、武装も強力で木造軍艦では一般に32ポンドのカノンを装備するのが普通でした。それが68ポンド砲と110ポンドのアームストロング砲を採用しています。

 ウォーリアとその姉妹艦であるブラック・プリンスは、たちまち世界の最強艦となりました。英国は以後、木造軍艦を造らなくなります。アメリカ合衆国海軍もそれにならって1863年には鉄製艦体の軍艦ミシガンを就役させました。

 さらに1870年代には鉄製の艦体から、より軽量で強度も高い鋼鉄製艦体への進歩が急速に進みます。このときもフランス海軍が先駆して1876年にルドゥタブルを就役させました。

 このころわが日本海軍も初めて英国から軍艦を買い入れます。竣工したのは1878(明治11)年のことでした。帆がなくなり、石炭専燃缶4基を備え、機関出力3500馬力、速力13ノット(約24キロメートル)、武装も24珊20口径単装砲4門、15珊40口径単装砲6門、47ミリ単装砲4門ほかでした。排水量は3776トン、全長約65メートル、幅14.6メートルというなかなかのもので、清国海軍がドイツから「定遠」、「鎮遠」を購入するまでアジアでは唯一の近代装甲艦です。

 1870から80年代のわが国要塞の備砲論争は、侵攻する敵艦の能力をどのように想定していたかを踏まえたものであったことが大切です。

▼艦砲と装甲

 1853年のシノープの海戦では、ロシア軍艦の炸裂弾によってトルコ軍艦は次々と沈められました。それまでは鉄製の球形弾丸を高速で木造艦体にぶちあてて、艦体そのものを破壊していました。あるいは艦尾から砲列甲板を掃射して敵砲や乗員を殺傷する戦いがふつうでした。だから大型艦はより大きな重い艦砲、しかも平射カノンを多数備えていたわけです。そうした流れを変えたのはロシア艦が撃ちだした炸裂弾でした。トルコ艦の木造艦体をぶち破ると、次々と内部で炸裂したのです。

 これを学んで鉄製装甲艦が登場すると、装甲板を貫通させるためにより大きく、威力のある艦砲が生まれます。ところが、当時の艦砲は発砲後の後退をブリーチといわれた太いロープで止めるものでした。砲手は砲の後退をよけて、砲が停止した後にロープを人力で引き戻していたのです。装填のたびにこれを行なうのが難しくなりました。

 また砲身も改良がされます。滑腔砲から施条砲への進化です。施条はいいことだらけでした。弾速もあがり、直進性も高まり、貫徹性も向上します。しかし、前装では難しく、砲尾から装填する後装砲が主力になってきます。

 フランスの砲兵将校アンリ=ジョセフ・ペクサンは1823年に炸裂弾が発射できる初めての艦砲を開発しました(『世界史を変えた50の船』)。平射カノン砲ともいわれたようです。地上戦の炸裂弾は多くが擲射でした。砲弾を高く撃ちあげて落下させたのです。ところが艦砲では直線的な弾道をとり、高速で敵艦の横腹に撃ち込むことが必要とされます。

 ペクサンは「信管」を発明して、標的にぶつかるまで起爆しないように炸裂弾を安全なものにしたのです。シノープの海戦でロシア軍が使ったのは、このペクサン砲といわれる後装式の艦砲でした。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある