陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(64)自衛隊砲兵史(10) 107ミリ重迫撃砲(1)
▼迫撃砲にライフリングがないのは?
迫撃砲(MOTOR)というのは、高い弾道で撃ち出して近距離までも射撃できる火砲です。もともとは日露戦争でも使われました。最も進歩したのは第1次世界大戦でした。加農は直射弾道で、榴弾砲は擲射弾道でしたが、榴弾砲でもすぐ直前の敵は撃てません。弾道で考えると、はるか昔の臼砲に近くなります。ただ、臼砲は大口径で要塞攻撃や、艦船を撃つのに使われました。
迫撃砲の特徴はなんといっても閉鎖機がないことです。砲口から弾を落とすと弾尾についている装薬に点火し発射されます(これを墜発式という)。砲身内に弾と装薬を装填し、その後、火管で点火するという手間が要りません。したがって発射速度がたいへん高くなります。ただし、多くの迫撃砲には砲腔内に施条(ライフリング)がありません。砲口から落とすので、なるべくスムースに入るように考えられたからです。
では、どのように砲弾を安定飛翔するようにできたのでしょうか。迫撃砲の弾には安定翼がついていたのです。それで旋転するジャイロ効果がないのに、頭部を先にして狙ったところに飛んでいきます。しかし、それはやはり気象条件、特に風によって安定度は左右されました。
▼陸軍と迫撃砲
帝国陸軍でも、迫撃砲の有効性については気が付いていました。陸軍は第1次世界大戦の研究に力を注ぎます。多くの将校や研究者が派遣されました。その成果は多くの文献に残っていますが、1918(大正7)年夏には「特種兵器試験委員」が設けられ、各種の兵器、資材を学校や軍隊に使わせて、どう持たせて、どのように訓練するか、所要人員はどれくらいかなどを研究し、報告しています。新しい兵器は、どうしても編制、訓練などに関わります。
研究をされた兵器には次のようなものがありました。狙撃砲(機関銃陣地の銃眼を撃つ)、擲弾銃(旧式小銃から擲弾を発射する)、榴弾、信号弾、軽迫撃砲、防毒覆面(対ガス戦)、手榴弾、臨時高射砲、毒ガス発射器、火炎発射器など。どれをとっても欧州大戦で使われた新しい兵器ばかりです。
▼1920(大正9)年の「兵器研究方針」
1919(大正8)年には陸軍技術研究本部が発足します。翌年7月には研究方針が発表されました。その中に、歩兵兵器という項があります。歩兵銃(口径7.7ミリのもの、日露戦争で6.5ミリ弾の威力不足がいわれました)、機関銃(増口径する)、軽機関銃(歩兵銃の改正に合わせて7.7ミリ)、歩兵砲(37ミリ、平射と曲射)、手榴弾(曳火手榴弾)、銃榴弾(歩兵銃で発射する)とずらりと並びます。
軽迫撃砲は備考欄に書かれています。軽迫撃砲は、迫撃砲兵器の中で研究する、ただし状況上歩兵に配属することは戦術上の使用区分に委ねる・・・とあるのです。このことは興味深い意見でした。ピンポイントの射撃、少ない弾で精度の良い弾着で敵を制圧するという砲兵の意見が強かったのでしょう。どんどん撃って面で制圧する迫撃砲は「あんなものは火砲ではない」という気分があったようです。
▼曲射歩兵砲と迫撃砲
歩兵が使える火砲はないか。これは世界大戦の欧州戦場で「塹壕砲」として使われたものを参考にしました。フランスで開発された無施条のストークブラン砲とドイツ軍が採用したライフリングがあった軽迫撃砲を比較します。やはり精密な射撃ができるドイツ式を採用しました。金属と木を組み合わせた底板をもっていたので、方向や高低の射角を精密にできるということが魅力でした。
口径は70ミリ、重量は63キロ、最低仰角43度で最大射程は1550メートルでした。1922(大正11)年に制式とされ、「十一年式曲射歩兵砲」となりました。なぜ、迫撃砲としなかったというと迫撃砲は火砲であり砲兵が使う。曲射歩兵砲は、直射歩兵砲
と対になっており、どちらも歩兵大隊の編制内にあるからです。のちに迫撃砲は、砲兵の迫撃大隊という部隊に装備されます。
▼墜発式と拉縄式
この曲射歩兵砲の発射方式は「拉縄(りゅうじょう)」式というものです。現在の陸自装備の120ミリ迫撃砲も、ふつうの墜発とこの拉縄式という発火方法もとれます。砲弾を砲口から装填し、砲尾の打ち鉄(うちがね)を拉縄(長いロープ)で引き発火させました。
射程は砲身の角度(俯仰角・ふぎょうかく)でも調整しますが、撃針の覆いを上下させて薬室の容積を変えることもできました。これはのちの89式重擲弾筒の仕組みと同じです。
砲弾は、弾底の装薬を収納した部分がガスで膨張して、弾帯(だんおび・銅でできている)が施条に食い込み、回転するものです。榴弾と発煙弾、照明弾を撃ちました。
次回は昭和初めの迫撃砲事情について語ります。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。