陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(31) 日露戦争の総決算
□はじめに
日露戦争は「歩兵の戦い」でした。大陸などへ海を渡った野戦軍に属した人は約94万人、うち半数強(55%)が歩兵科の将校・下士・兵卒です。戦闘中の即死、あるいは負傷を理由として亡くなった方(戦闘死者とする)は全体で約6万人、その93%強は歩兵でした。野戦軍の歩兵科の中に占める戦闘死者は約11%、つまり10人に1人は亡くなりました。
当時の軍隊の構成はどうだったかを改めてみてみましょう。戦争に参与した軍人は全体で約109万人、軍属は同15万4000。ただし、この数は野戦隊と内地の補充隊や後方の諸機関や部隊に在籍した軍人、軍属も含みます。
戦地勤務の軍人94万人の階級構成は「戦役統計」から分かります。将校2万2000、准士官5000、下士7万6000、兵卒84万でした(数字は概数)。割合でいえば、将校と准士官が約3%、下士8%、兵卒89%となりました。
戦地勤務の軍属(軍隊に勤務する文官その他)は約5万4000人です。高等官が3000人(6%)、判任官と雇員(こいん)が1万人(18%)、傭人(ようにん)が4万1000人(76%)でした。高等官は将校待遇で法務官や施政官、通訳官、技師などです。判任官と雇員はその補佐、傭人は多くが輸送任務や労務にしたがいました。
人的損害は入院履歴や各種統計で調べられます。歩兵の佐官は1260人中の263人が戦闘死者となり、なんと約21%の損害です。聯隊長や大隊長が倒れています。歩兵の尉官も9700人のうち1500人が失われました(同15%)。第一線の中隊長や小隊長も6~7人のうち1人が亡くなったことになります。
ただし、この佐官の高率は、大尉が戦死し少佐進級した人も含まれますから、実際の数値では尉官が増え、佐官が減るかもしれません。
准士官も3400人のうち400人が戦闘死、12%となります。下士は約5万人のうちに8600人で約17%。最前線の分隊長としての奮闘が想像できます。映画やドラマ、小説ではしばしば階級が高いほど安全とされますが、兵卒は45万2000人中で4万5000、つまり10%です。
こうしてみると、戦闘死率で見ると、佐官>下士>尉官>准士官>兵卒という順番になり、幹部(下士以上)の損害率の高さが目立ちます。このことは歩兵ばかりではなく、砲兵の戦闘死率も佐官、尉官はそれぞれ4.4%、准士官1.1%、下士3.7%、兵卒1.4%と幹部の死者が多かったことも分かりました。どの兵科でもこの率は階級上位の人ほど多かったことが記録から読みとれます。
最後に、「戦役統計第4巻第12編」をまとめた大江志乃夫氏の数字を挙げます。全兵科佐官の戦闘死者率は15.5%となり、下士の13.5%、尉官の11.6%、准士官の8.4%をおさえて第1位です。兵卒は5.8%であり、その母数の多さから兵卒の悲惨さがよく語られますが、実態は、佐官は6人に1人が亡くなりました。
やはり、戦闘は指揮官先頭で行なわれています。軍刀をふりかざし、目標を指示し、兵の先頭をきって立ち上がり前進する指揮官、小グループの分隊長(下士)の損害がひどく多かったことが分かります。
砲兵が目立つのは将校の戦闘死率が下士・兵卒を引き離して高いことです。観測所や通信施設、放列陣地、指揮所での損害が多かったことを示します。砲兵は砲兵と戦いました。対砲兵戦といいますが、両軍ともに歩・工兵を支援するためにまず敵砲兵を狙います。その激しさがよく分かる数字です。
▼歩兵の銃剣突撃の伝説
日露戦争を前にした「明治31(1898)年歩兵操典」はドイツ歩兵操典を参考にしたものでした。もとは明治24(1891)年制定の改訂版です。それによると、「歩兵戦闘は火力である」とし、「突撃は勝利の最終確認」だということでした。正確な射撃で敵兵を圧倒し、敵兵の多くが逃げ去った後、まだ陣地に残る敵兵を銃剣で威嚇し、捕獲するというものです。
じっさい、銃剣を頼みとするような戦闘はほとんど想像もされていませんでした。近頃ではアジア歴史研究センターの記録から、緒戦では敵陣に接近するのに着剣すらしなかったという歩兵第34聯隊中隊長の経験談も出てきました。
驚かされたのはロシア兵の銃剣突撃です。ロシア兵はその長大な歩兵銃に着けた銃槍(簡単には脱着できないスパイク状)をふりかざして前進してきました。
日露戦前の陸軍戸山学校の歩兵戦闘法教育では、敵前2000メートルまで密集隊形で前進し、5、600メートルで決戦射撃距離に入る、そこで散開し小銃射撃を行ないます。各兵が号令のもとに前進し、300メートルになれば敵兵の顔がはっきり視認できる、さらに射撃を盛んにし圧倒する、そこで逃げる敵兵を追い撃ちし、敵陣を占領する。射撃指揮官である中隊長に必要なのは正確な距離の把握です。
「きょりさんびゃーく、各個に撃て」という号令に合わせて兵卒は銃の照尺を300メートルに合わせて、敵の足首を狙って撃ちました。そうすれば弾道が低伸する30年式歩兵銃の弾は確実に敵兵の上半身をとらえます。
▼白兵創は少なかった
歩兵将校の回顧談によれば、「敵兵は次々と倒れた。しかし、ロシア兵は逃げない。将校もまた退却の号令を出さない。大地に根を生やしたようなロシア兵は一歩も退かなかった。さらに接近すると、驚いたことにロシア将校はサーベルをふりかざし、攻撃前進を命じてきた。ちっとも逃げないじゃないか。話が違うだろうと思った」ということです。
「残忍なロシア兵の銃剣突撃」という思い出話が多く残ります。緒戦では日本兵はロシア兵の銃剣突撃に圧倒され、てんでばらばらに逃げた、将校と下士は必死で後退を止めようとしたが流れにのみ込まれ、ロシア兵の銃剣に刺され倒れていったという外国観戦武官の報告までありした。
そうして全負傷の中で銃剣も含めた「白兵創」は負傷者全体の4.5%にしか過ぎませんでした。しかもこのうち8割以上が入院を必要とせず、隊内の治療で済んでしまったとのことです。
興味深いのは野戦でも要塞戦でも接近しての格闘戦闘が増えました。ただし、銃剣などによる死傷より、手榴弾などによる、あるいは坑道爆破による爆創の死傷が増えたことが注目されます。そうして投石、銃床、スコップなどの殴打などが増えていきました。なにより投げて着地するとすぐに爆発する手榴弾が有効でした。まさに第1次大戦の前哨戦だったわけです。
次回はいよいよ砲兵の弾薬不足や、戦後の不評などについてまとめて、日露戦争の話題を終えましょう。新しい砲兵装備、第1次世界大戦のチンタオ攻略までです。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。