陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(35)チンタオ要塞攻撃準備

▼戦う重砲兵

 くわしい戦記は専門の方々から学ぶこととして、技術史的な、あるいは運用上の細かいことなどを調べていきたいと思います。

 まず、攻城砲兵隊の射撃実施の要領から。


(1)主力をもって敵砲兵、一部で敵艦艇を砲撃する。

(2)前項の効果とわが第一線の前進にともなって、主力は敵堡塁を破壊し、一部で敵砲兵を圧倒する。
(3)歩工兵の突撃を準備し、援助する。

 このことからわかることは対砲兵戦闘を行なう、同時に港内の敵艦艇からの艦砲射撃にも対抗しようとしています。また、敵の堡塁を破壊できないと歩兵・工兵が前進できなかったこと、旅順戦での苦い経験を生かしていることがわかります。

 各部隊には任務が与えられます。まず、海軍重砲隊です。15珊加農(カノン)、12同がありました。敵艦艇を撃滅することが最も重要でした。直射弾道で敵艦艇の舷側を撃つことがねらいでした。

つぎに、独立攻城重砲兵第3大隊第1中隊は10珊加農4門をもっていました。射撃すべき目標が重要な順に示されています。敵艦艇の撃滅、散兵壕の破壊、活目標の掃射が任務です。活目標というのは軍事用語でした。「各種活目標ヲ殺傷シ」などと使われることから、生命ある敵勢力という意味です。

28珊榴弾砲4門を運びこんだのは独立攻城重砲兵第4大隊でした。射撃目標はもちろん、永久堡塁砲台の破壊です。わざわざ永久というのは要塞の正面装備として頑丈な構造をもっているからでした。旅順と同じようにコンクリートで包まれた堡塁を叩きつぶそうということです。

▼対砲兵戦をになった榴弾砲部隊

 15珊榴弾砲を装備した独立中隊、12珊榴弾砲をもった野戦重砲兵第2聯隊、同第3聯隊は敵砲兵を第1の射撃目標としました。遮蔽陣地(しゃへい・じんち、地形を生かして砲を隠す陣地)にあり、直接に見えない敵砲兵を撃つには擲射する榴弾砲がむいているからです。

 20珊、24珊の榴弾砲をもった独立攻城重砲兵第2大隊は永久堡塁と、その内部の敵砲兵を目標としました。他に10珊加農をもつ同第3大隊は敵砲兵の撃滅と散兵壕の破壊などを任務とします。

 このように、重砲(口径10センチ以上の大砲)の任務は、榴弾砲は動かない堅固な目標を、加農は対砲兵戦闘を撃つことが分かります。この他に独立第18師団には野砲兵第24聯隊がありました。野砲兵大隊は38式野砲で歩工兵の直接支援をします。興味深いのは弾種の比率です。規定弾薬以外の準備がありますが、榴霰弾4に対して榴弾は1でしかありません。堡塁や機関銃陣地は重砲に任せて、散兵壕の敵には頭を上げさせないように榴霰弾を浴びせるという分担があったようです。

▼「独立」と師団砲兵隊

 「独立」という言葉がしばしば出ますが出征軍は通常、軍司令部の隷下に入ります。軍は師団以上の戦略単位を複数指揮しますが、このチンタオ要塞攻撃は第18師団(久留米)が主力となって行なわれました。そこで独立という言葉が使われています。同じように、独立重砲兵大隊も、砲兵団司令部や師団の隷下に入らずに第18師団長に直属しました。

 ついでに、師団直属の特科隊(歩兵以外の軍隊)の部隊番号は師団と同じという規則がありました。第1師団には第1野砲兵聯隊、第1輜重兵大隊、第1工兵大隊などです。それなのに日露戦中や戦後に増設された師団の砲兵隊にはその師団番号とは異なる番号がついています。

 これは日露戦中に臨時動員をした第13~16師団の4個師団が常設化されたことと関係があります。新潟県高田市に開かれた第13師団は野砲兵第19聯隊が固有の砲兵隊でした。では、第13野砲兵聯隊はどこにあったのでしょうか。それは千葉県習志野に司令部があった野砲兵第1旅団に属していました。この野砲兵旅団は第13と同14の2個野砲兵聯隊によって成っています。

また、野砲兵第2旅団は千葉県国府台(こうのだい)に司令部と第15と第16野砲兵聯隊、前同第3旅団は千葉県下志津(しもしず)に司令部と第18野砲兵聯隊をおき、第17(千葉県国府台)同を指揮下においていました。

 このように、既設の第12師団までは師団番号と砲兵隊の番号は一致しますが、日露戦争を視野にした野戦砲兵旅団を3個(6個聯隊)つくったために番号の原則はなくなったのです。余話でした。

▼攻撃作業器具

 攻城工兵器具材料主要品の一覧があります。まず、「円匙」(えんぴ)です。明治初めの工兵器具の中に「円頭鍬匙」(えんとうしゅうし)という物があります。これを略して、円匙になったのでしょうが、「匙(さじ)」には「シ」という音しかありません。これがいつの間にか「ピ」となり、いまの自衛隊でも先端が丸いスコップを「エンピ」と言います。

 次に「十字鍬(じゅうじしゅう)」、上から見ると確かに十の字に見える掘削用具です。柄と直角に取りつけられた鉄材は両端がとがっています。もう一つは「鶴嘴(つるはし)」になります。取りつけられ方は十字鍬と同じですが、片方が尖り、もう一方は鑿(のみ)のような形をしています。そうして「長鉄槌(ちょうてっつい)」と「短鉄槌(たんてっつい)」です。鉄製のハンマーのことをいいました。

 攻撃部隊全体に支給されたのは円匙3100、十字鍬1650、鶴嘴500、長鉄槌75、短鉄槌75となりました。

 土嚢も支給されます。砲兵掩護陣地用に4万、第1攻撃陣地4万1000、第2攻撃陣地4万9000、交通壕5万の合計18万になります。

 第1次攻撃作業用の掩蔽部(えんぺいぶ)材量もありました。「松板」です。長さ6尺(約180センチ)、厚さ1寸5分(約45ミリ)の板が850枚、同厚さ1寸(30ミリ)が850枚、「杉丸太」長さ1間(いっけん)約180センチ、750本でした。

「釘(くぎ)、5寸(約15センチ)が1700本、4寸(同12センチ)1700本、3寸(同9センチ)3400本、「鎹(かすがい)」8寸(約25センチ)540個、6寸(同18センチ)640個、「手違鎹(てちがえかすがい)」8寸、240個、同6寸が270個になっています。(つづく)

 荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。