陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(5) 砲兵がエリートになる
□お礼とお答え
NK様、長い間のご愛読、まことにありがとうございます。このたびはご丁重なるお尋ねをいただき重ねてお礼を申し上げます。
さて、実体弾と異なる中空の榴弾、その製造法です。耐熱性の粘土などで中空の型を造りました。そこへ熔けた鉄を流し込みます。その中空の中に中子(なかご)といわれる、さらに中空を造るための型を入れました。こうして中に空間ができた砲丸ができます。
この空間の中に炸薬を穴から流し入れて、さらに火道信管を挿し込みました。この信管は発射時の装薬によって点火されます。飛んでゆく弾からその火が見えたために曳火信管といいました。その時限式の起爆装置をつけた砲弾による射撃を、現在でも陸自では曳火射撃といいます。いまは機械式信管でセットされ、火など見えませんが言葉だけは残っています。
また弾穀の厚さなどについては、発射時の安全度と弾片威力のかね合いから考えられた経験則で決められていたようです。しかし、時には目に見えないようなひびや、隙間から発射時に炸薬に火が入って腔発も起きていた記録も残っています。
砲弾が球形から紡錘形の形に変わるのは19世紀になってからです。経験的には砲腔内にライフルを彫って弾に回転を与えると直進性が増すことや、安定した姿勢を保つことは知られていました。けれども前装砲が主力の時代には、砲腔内部の加工の正確さや、装塡時の困難さの解決ができませんでした。18世紀末のグリヴォーヴァル将軍には解決できなかったのです。
いろいろな説がありますが、1846年になってイタリアで後装施条砲が実用化されるまで、前装砲時代には球形弾が主流でした。
▼ナポレオンは砲兵だった
ナポレオンはコルシカの地方貴族の出身でした。1769年生まれです。わが国では、賄賂政治などといわれた田沼意次が権勢をふるっていた頃でした。ナポレオンが砲兵少尉に任官したのは1785年、16歳のことでした。幼年学校からパリの士官学校に進み、そこの4年間の課程を1年で修了したといわれます。数学がひどく得意だったようです。
1702年にはフランスのアカデミーで、初めて銃砲火薬の作用を解明しようという試みが生まれました(『図説世界軍事技術史』小山弘健、芳賀書店、1972)。1743年には英国で砲内弾道についての研究が発表されます。
その報告で、弾丸に対する火薬の全作用は爆発によって生まれるガスが原因であること、このガスはふつうの温度と気圧で、発火していない火薬の236倍にもなること、燃焼の熱で腔内の火薬の最大圧力は、およそ1000気圧にもなることが明らかにされました。これらの他に、腔内に施条(ライフリングをして)して弾に旋回運動をさせると、飛行中の弾が安定することなども主張されました(前掲書)。ナポレオンが士官候補生であった頃は、各種の実験装置の発明や理論の開明期でもあり、数学的な素養が重要になった頃でもあったのです。
▼リセとエコール・ポリテクニク
ナポレオンが第1統領になって政治の実権を握ったときでした。1802年のことです。ナポレオンはリセを創設します。リセは国立高等学校とも訳されます。そこの教育内容の多くを占めたのはラテン語と数学と哲学でした。
ナポレオンは語ります。人は正確に書き、語らねばならない。それをするには文法と文学を学ぶ。歴史上の主要な出来事を知り、基礎的な地理、計算法と計測術を知らねばならない。自然現象、固体と流体について均衡と運動の原理について一般的な常識をもつことが重要である。
いまから考えても、たいへんなエリート教育です。16歳でここを卒業するということは大変な知識人であることが証明されます。
さらにナポレオンは高等職業訓練所だったエコール・ポリテクニクを陸軍砲工学校に変えました(1801年)。木元元将補によれば、学校の修学課程は2年間、4期に分けて各6カ月です。第1期は歩兵大隊教練、野砲・攻城砲の操作、砲兵・工兵に関する知識、第2期は射撃術の完全習得、第3期は水力・民事・軍事建築学、要塞建築など、第4期は火器弾薬・地雷・築城などのすべての復習にあてました。砲兵、工兵将校の資質を磨くことに全力をあげています。
興味深いのはナポレオンの青年将校への見方です。ナポレオン書簡集31巻に載っています。要約すると、卒業生がすぐに役に立つとは誰も思わない。卒業生をすぐに射撃中隊や攻城砲部隊に配属してはならない。部隊に配属したら、すぐに新兵教育を担当させよ。彼ら新兵に操砲、歩兵教練、機械操作を教えさせろ。新品将校が砲の照準を兵卒より巧みにできれば、彼の受けた教育の効果に疑問をもつ者は誰もいないだろう。古参の下士官が新人少尉に何も教えることがないと納得すれば、彼らが新品将校に嫉妬することも起きない。
なるほど、日本陸軍の新品少尉は初年兵の教官として働きました。兵卒に模範を示し、熱意をもって教育にあたったことはよく知られています。あまりいい例ではありませんが、昭和の時代、兵士たちは予備士官学校出身の幹部候補生あがりの少尉を「空砲」といいました。陸士出身者を「さすが実包」といったそうです。また、陸士出身者の回顧録に「兵ばかりか下士官まで陸士出は何でもできるという思い込みがあった」という記述をしばしば見ます。こんなところにも陸軍のフランス化の伝統を感じます。
▼砲兵の地位
グリヴォーヴァル将軍が進めた改革には大きな抵抗勢力がありました。それは貴族たちの心情的な抵抗でした。名誉ある軍人として認めるには、あまりに砲兵は異質だったからです。戦争は貴族出身者が将校として指揮をとる歩兵と騎兵が行なうものであり、数学ができるというだけで名誉ある軍の将校・士官としていいのかという問題でした。
敵の将兵の誰と特定できない相手を数百メートルも彼方から殺せる、これはフェアかどうかということです。歩兵から直接の報復を受けることがない、一方的に殺傷する行為は戦闘と言えるのか。当時の人の心情を笑うわけにはいきませんね。双方とも身体をさらして50メートルで撃ち合い、次に白刃(白兵)で渡り合うのが男(軍人)の世界でしたから。
「砲兵と彼らの冷血な数式、軍人の生活を英雄的で、賞賛すべき、生涯をかけるに値するものとしているすべてを転覆しかねない、不穏な陰謀を秘めているようにみえた」(『戦争の世界史』マクニ―ル、髙橋均訳)
1781年にはフランス陸軍省は歩兵と騎兵の将校になろうとする者は、父母双方の家系で祖父たちが貴族であることを証明する書類を出すように通達します。興味深いのはこの後、ナポレオン戦争の頃になっても、英国陸軍では将校任命辞令を金で買うという風習が残っていました。ナポレオンを破ったウェリントン公爵もそうした1人だったようです。
ナポレオンは数学的才能を何より重んじ、砲兵将校の任用については、平民出身者も差別なく扱っていました。そうしてナポレオン軍の影響を受けた西欧各国軍では、砲兵はエリートとなっていきます。
次回は、フランスから贈られた4斤(しきん)野砲とアームストロング砲などに話題を移します。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。