陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(33)日露戦後の砲兵

▼砲塔砲台とは

 素晴らしい好天に恵まれて、今日(22日)は東京湾要塞の千代ケ崎砲台に行きました。京浜急行浦賀駅から港を見ながら徒歩10分、道は史跡燈明堂入口まで平坦です。そこから右手の上り坂をあがります。丘の上に入口があり、篤志家の方々が案内をしてくださいました。

 28珊榴弾砲の砲座が完全に残り、地下の施設もほぼ昔の通り残っています。塁道(るいどう)の幅は約4メートル、貯水所、砲側弾薬庫もあり、点燈室、揚弾機の取りつけ跡なども見学できます。

 残念なのは有名な砲塔砲台の跡には向かえません。28珊砲の砲座は標高約60メートル、砲台砲塔は同47メートルの地点でした。現在は民有地になっており、下りることができません。しかし、その跡は容易に見ることができます。土塁や換気筒の上部などが残っているからです。

ここに据えられた砲塔砲台の備砲は、ワシントン軍縮条約(1921年)の翌年に陸軍に管理替えをされた旧式戦艦の主砲塔でした。千代ケ崎にあったのは、前ド級戦艦の「鹿島(かしま)」の主砲です。

ド級とは英国戦艦ドレッドノートのことを指します。1906(明治39)年にデビューしたこの戦艦は主砲の射撃方向を増やしたことなどで有名ですが、タービンを使った初めての戦艦でした。これより前に完成した戦艦は一気に旧式艦となりました。鹿島はこの1906年に英国で竣工します。つまり生まれると同時に、旧式戦艦となりました(1923年に除籍)。

この砲は45口径12インチ連装砲でした。英国製なので12インチ(約30.48センチ)ですが、普通は30センチといわれました。

▼動力が問題になった

 砲塔砲台は特徴をもっています。それは戦艦砲塔の旋回部も弾薬供給装置も、そのまま砲台に置いたことです。海軍の砲塔はすべて水圧で動きました。そこで砲台には駆動用の水圧を生みだす発動機、コンプレッサー(蓄力機)が必要になります。

 また、射撃の反動を受けとめるための緩衝器(ショック・アブソーバー)が追加されました。水上で行動する軍艦の射撃の反動は海に逃がせますが、陸上砲台ではそれはできません。千代ケ崎砲塔砲台はこのために射角が左右40度と制限されていました。

 とはいえ、約500トンの重量があり、最大射程も2万メートルを軽々と超える艦砲です。威力は十分、1925(大正14)年から浦賀水道の守りにつきました。

▼日露戦後の新制式野砲

 ロシアの野砲と同じ砲身後座式で、31年式速射野砲の弾薬をそのまま使える新型野砲をドイツにいた兵器本廠検査官の田中弘太郎砲兵少佐に選定を命じます。その頃、砲身後座式野砲を製造していたのはドイツのクルップ、エヤーハルトの両社とフランスのものでした。フランスはロシアと同盟関係にあったので買うことはできません。経験も積んでいるのはクルップです。そこで1904(明治37)年11月初めにクルップ社に野砲の完成品400門と砲身の素材鋼400門分を発注します。

 1905年7月には最初の2門が到着しました。これから翌年6月まで毎月40門前後を受け取ります。契約時点では1月までに納品完了のはずですが、ドイツの都合で遅れました。それはアルジェリア問題のためにドイツ軍も装備の充実を急いでいたからです。こうしたことも兵器や装備は国産化しないといけないという理由の1つになります。

 画期的なのは明治38年8月から始まったこの新式砲の機能試験で、現用の分離薬筒式弾薬と完全弾薬筒の使用を比較したことです。分離薬筒というのは弾と装薬が別になっています。完全弾薬筒というのは小銃のように弾頭と金属製薬莢が一体化しているものをいいます。従来の分離式はまず弾頭を入れ、その後に薬嚢を装填します。それに対して完全式は一挙動で装填が完了する、発射速度ではどちらが有利かはすぐに分かります。毎分12発、1発あたり5秒で発射できるようになりました。

 そうして明治39年9月23日には「三十八年式野砲」と命名し、呼称は略式に三八(さんぱち)式野砲としました。ただし、各種の改良の結果、制式は1907(明治40)年6月10日になります。新しい完全弾薬筒式の弾は重量6500グラム、初速は改良の結果毎秒520メートルでした。このように竣工、受領、試験、改良などが行なわれ、制式化の年月日は変わることが普通です。

▼新型砲の装備化進む

 大阪砲兵工廠では1907(明治40)年3月から製造を始めます。5月頃には月産6門、翌年5月には月産36門を造れるようになりました。そうして1916(大正5)年にはすべての砲が完全弾薬筒式になります。1919(大正8)年3月の時点では、製造門数は1900門になりました。実戦への参加は1914(大正3)年のドイツ領だったチンタオ(青島)要塞の攻撃が初めてでした。そうしてこの野砲は大東亜戦争の終結まで使われました。

 日露戦争では重砲では日本軍が優勢でした。そこで野戦砲でも大型化と曲射化が進みます。とりわけドイツやロシアでは野戦榴弾砲を野戦部隊に採用していました。ロシアは実戦の経験から、ドイツは将来の戦争を見越しての改革といわれています。フランスはどうかというと論議を激しく行なっていたようです。

 フランスの考えは歩兵と砲兵が緊密に連携して機動戦を行なうことを重視していました。ドイツやロシアは、敵の頑丈な野戦陣地を砲撃で叩き、歩兵が突撃する条件を整えるという火力重視、つまり榴弾砲を有用と考えていたのです。

 わが砲兵は、開戦の前、1903(明治36)年には野山砲や12珊榴弾砲、15同の比較試験を行なっていました。この結果、榴弾砲、とりわけ15珊の有効性が実証されます。戦争が始まると要塞砲兵から動員がされて、野戦重砲兵部隊と徒歩砲兵(つまり攻城砲兵のこと)の部隊を編成しました。クルップ製12珊榴弾砲は緒戦の鴨緑江渡河作戦でロシア砲兵を圧倒し偉勲をたてます。徒歩砲兵部隊は旅順要塞の攻撃で使われました。

 本来、攻城用だった12榴を野戦に使い、これが有用だったことから1904(明治37)年10月にクルップ社に15榴、12榴、そうして10珊加農(カノン)を発注します。いずれも戦争には間に合いませんが、わが国に到着後、すべて「三八式」の名称で制式化されました。そうして、15榴と10加を装備した野戦重砲兵が誕生したのは大正時代のことでした。

 次回はチンタオ要塞攻撃になります。

(つづく)

 

 荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。