陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(45) 第1次世界大戦の教訓
▼世界大戦を体験しなかったからという誤解
これはよく言われることです。日本陸軍は第1次世界大戦をきちんと学ばなかったから、陸軍は新しい考えを取り入れなかった。たとえば、大正初めから装備化が進んだ38式歩兵銃の全長は短くならず、銃剣も長いままだった。
列国は塹壕戦の中での取り回しに苦労したからみな短くなった。日本陸軍はあの塹壕戦を経験しなかったから、長大なままの歩兵銃を装備し続けた。また、自動装填連射の短機関銃を装備しなかったのだ。こんなことがよく言われます。
たしかにドイツ軍は歩兵銃から騎兵銃タイプにしました。英国もまた同じです。でも、日本陸軍の主敵だったロシア軍、のちのソビエト陸軍はどうだったでしょう。世界大戦の塹壕戦を経験したはずなのに第2次世界大戦も、あの長大なモシン・ナガンM1891歩兵銃はそのまま。さらには銃口にネジ止めしたスパイクを着けていました。銃の全長は129センチ、着剣すると173センチです。
38年式歩兵銃の前身は30年式歩兵銃ですが、銃全長は127センチ、30年式銃剣を着けて167センチでした。つまり銃剣格闘でロシア軍に負けないように歩兵銃が長かったというのは誤りです。むしろ、のちにノモンハンなどで行なわれますが、広大な草原や砂漠地帯で長距離での小銃射撃が行なわれたことからも、不利な短銃身にはできなかったのではありませんか。
また、拳銃弾を使う短機関銃を採用しなかった。これはのちに非業の死を迎える渡辺錠太郎大将が若い頃に「これからの歩兵には塹壕戦用に短機関銃を装備すべし」という提言を行なっています。これは確かにすぐには実現しませんでしたが、あの欧州大陸のような長大な塹壕線で戦うということが、アジアで起きたでしょうか。そうはなるまいと多くの軍人は考えたようです。
▼重砲を充実した欧州列国
フランス軍は開戦時には61個中隊、308門が砲兵勢力でした。それが1918年には野戦重砲約4600門、攻城重砲340門、合計で約5000門を整備しています。また迫撃砲も約2000門があったといわれます(『兵器と戦術の世界史』)。
そうして師団の1000人あたりでは開戦時には3.2門だったのが(軍団砲兵も含んでの数字)、1918年には4.4門(前同)となり、攻撃用の師団では8.7門、防禦師団でも5.5門に達します。2個師団、つまり1個軍団で兵員を1万8000名とすると、およそ160門にもなりました。
火砲1門あたりの担任正面を調べても砲兵火力の増大は驚かされます。フランス軍の数字ですが、1915年9月のシャンパーニュ会戦では野砲1門が33メートル、重砲は40メートルでした。それが17年10月のマルメゾン会戦では野砲16メートル、重砲にいたっては12メートルとなっています。
▼チンタオ要塞攻撃の日本軍
では、日露戦争の要塞攻略戦の反省から、ドイツ領青島の要塞を攻撃した日本軍はどのような砲兵火力を用意したでしょうか。まず、動員が1914(大正3)年8月16日に下令されました。対象は第4師団(大阪)、第5師団(広島)、第18師団(久留米)管理部隊です。
23日には旅順、澎湖島(ほうことう)、基隆(きいるん)、鎮海湾、長崎、佐世保の各要塞に警急戦備下令となります。砲座は整備され、弾薬も砲側に揚げられ、すぐにも火ぶたが切れるような態勢です。9月4日には野戦重砲兵第2聯隊、8日には前同輜重隊、24日には28珊榴弾砲で編成された独立攻城重砲兵第4大隊にも動員がかかります。
すでに第18師団の動員と並行して野戦重砲兵第3聯隊が8月16日には動員下令。同17日には甲号臨時編成部隊として攻城砲兵司令部と独立攻城重砲兵第1、第2、第3の各大隊、独立攻城重砲兵独立中隊と攻城廠も編成を命じられました。
▼独立攻城重砲兵部隊
野戦重砲兵第2聯隊は2個大隊、つまり6個中隊編成で38式12珊榴弾砲が24門です。同第3聯隊は2個大隊、同じく6個中隊で38式15珊榴弾砲が24門、どちらも輓馬編成でした。悪路と馬の不足でたいへんだったようです。
独立攻城重砲兵第1大隊は38式15珊榴弾砲3個中隊12門編成でした。本来は徒歩編制でしたが、前出の野重聯隊から馬を回してもらえました。前同第2大隊は大型砲装備です。第1中隊は45式15珊榴弾砲4門、第2中隊は45式20珊榴弾砲4門でした。
この2個大隊は10月6日に労山港から上陸します。火砲や砲床材料は軽便鉄道で運ばれ、陣地まで約50キロメートルを移動しました。もともと両砲とも要塞に据え付けられるのが前提ですから、移送はたいへんな困難があったでしょう。
同第3大隊は加農装備です。広島にあった重砲兵第4聯隊が編成を担任しました。38式10珊加農が12門、敵艦艇や気球に射撃します。同第4大隊は28珊榴弾砲3個中隊6門でした。由良要塞の重砲兵第3聯隊が編成を担任し、徒歩編制ですから軽便鉄道で運ばれました。
独立攻城重砲兵中隊は芸予重砲兵大隊が編成を担任し、装備は45式15珊加農です。中隊本部と2門をもつ戦砲隊、中隊段列から成る人員148名、馬匹4頭の中隊でした。砲台、堡塁の破壊に威力があり、制圧射撃に効果があがったといいます。
▼野砲兵と山砲兵
これに第18師団の固有砲兵である野砲兵24聯隊が加わりました。2個大隊6個中隊ですから36門の38式野砲があります。野砲榴弾1万907発を携行し、射耗が2224発ですから1門あたり約62発、榴霰弾携行6万1965発のうち1万6704発を射耗します。1門あたりでは464発になりました。要塞攻撃でも歩兵の直接掩護ですから弾種では1:7.5で榴霰弾が主になるわけです。
山砲兵中隊もありました。福岡県久留米にあった独立山砲兵第3大隊が編成を担任し、41式山砲6門を駄馬66頭、人員288名で運用します。中隊段列には駄馬50頭が属し、乗馬は20頭、輓馬が17頭という編制です。山砲兵隊は駄馬といって火砲や備品を分解し、馬の背に載せて運ぶのでどうしても馬が増えました。さらに10月25日、臨時山砲兵3個小隊が増派されます。各小隊41式山砲2門です。
▼日英共同軍の砲兵火力
10月28日の攻撃には、日英軍2万9272人、うち英国軍は1421人であたることになりました。重砲の数は88門に海軍重砲隊が8門、合計で96門です。それに野砲や山砲が44門となります。合わせて140門にもなったのです。
兵員が約2万9000人とすれば、1000人当たり4.8門となります。同時期の欧州戦線のフランス軍3.2門と比べると、約1.5倍というものでした。十分な砲兵に掩護された歩兵の漸進、壕を掘り、その線を推進してゆく正攻法をとりました。
当時の朝日新聞の特派員は次のような記事を送りました。
「世界文明の粋を集めたる大砲は、一斉に砲火を開けり。砲声天地に震撼(しんかん)し、硝煙暁霧(ぎょうむ)を破って、山東の日色為に暗澹(あんたん)たり」
では次回はフランス砲兵の戦後改革などについて調べましょう。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。